Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

友情は人間の証 善友と共に人生を勝ち抜け

2002.8.2 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
6  ショーぺンハウアーが、「仏教こそ最高の宗教である」(バートランド・ラッセル『西洋哲学史』3、市井三郎訳、みすず書房)と評価し、自らも仏教徒と称していたことも、有名な話である。
 彼は、仏教が無限の隣人愛、人間愛を教え、平和と寛容の宗教であることに着目していた。
 「その普及にあたって腕力ざたや戦争や残虐行為がなされたというような確たる報道はない」(『ショーぺンハウアー全集』13、秋山英夫訳、白水社)とも綴っている。
 彼は、人間の生の本質に苦悩を見つめ、その解決の道として、苦の根源にある欲望(盲目的意志)の否定を主張した。いわば欲望の滅却であって、それは、通途の仏教の範疇といえるが、今日、彼の哲学は、さらに豊かな可能性が注目されているようだ。
 生きることの苦しみを直視した彼は、同じ苦悩の世界を生きる他者への「同情」に、大き在意義を見いだすこの点でも、人間のみならず、「生きとし生けるもの」にも慈愛を向ける仏教の思想性と、強く共鳴していた。
 しかも、彼のいう「同情」の元意は、「共苦(共に苦しむ)」にあるとされる。仏法の「同苦」の精神と、深く深く響き合っている。
 「共苦(同情)は、あらゆる自発的な正義とあらゆる真正な人間愛との、本当の基礎である」(前掲『ショーぺンハウアー』)とは、彼の不滅の言葉である。
 この真摯な志向性の延長線上に、さらに大乗仏教の真髄へ探究を深めていかれたのが、トインビー博士であるといってよい。
 いずれにせよ、地球一体化の時代に要請される、人類を友情で結びゆく精神性の起点は、どこにあるか。それは、人間として人間らしく、他者の生命の苦しみに胸を痛め、共に打開せんとする同苦の心」ではあるまいか。
 先に触れた南インドの箴言にも、「人の苦しみを己の苦しみと思えないとしたら、いったい知恵の功徳はあるだろうか」(前掲『ティルックラル』)とあった。
 ともあれ、「同苦の心」という、この普遍的な生命のヒューマニズムの拡大にこそ、国家主義の魔性を封じ込めゆく、人類史の悲願が託されているのである。
 そして、この平和創造の高邁なる大運動を、我らは「広宣流布」と呼ぶ。
 先覚者の常として、ショーぺンハウアーも、生涯の大半を不遇のうちに過ごさざるをえなかった。彼が大きく世に認められたのは、生涯のうち晩年の十年であった。
 彼は綴る。
 「私もついに目標に到達した。生涯の終わりの段階になって、私は自分のして来た仕事が効力を発揮し始める状態を目にし満足を覚える」(前掲『ショーぺンハウアー』)
 彼の勝利宣言であった。
 人生は最後に勝てばよい。いな、最後の勝利こそが、人間の真の勝利である。
 彼は、こうも言った。
 「人生はそっくりそのままが戦いである」
 「種々の財宝の中で最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである」(前掲『人生論』)
 最極の善友と共に、我らは朗らかに、この人生を戦い抜こう。そして共々に、三世永遠の友情と勝利の歌を、轟かせゆくのだ!

1
6