Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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思い出の森ケ崎 「平和の世紀」建設こそわが使命

2000.7.14 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  久方ぶりに、私の小学校時代からの友人に手紙を書いた。
 私たちが小学生当時、既に日中戦争が始まっており、年々、戦火は広がっていた。みな貧しかった。
 多感な少年時代であるのに、私たちの心は解き放たれず、逃れ去る場もないくらい、日本の国は、戦争に追いつめられていった。
 深刻な暗い出来事が、完全に嵐のように来ることが予感されていた。
 夢見るような、楽しい、おとぎの世界への翼を広げて待っていても、夜明けとともに、けたたましく喇叭が吹き鳴り、親と子が離れ離れに、戦地へ引き裂かれていくような、悲哀の繰り返しの時代であった。
2  太平洋戦争が勃発した翌春、私は、国民学校を終えると、蒲田の新潟鉄工所で働きながら、青春を送らねばならなかった。
 やがて、戦況は急速に悪化していった。親しかった私の友人も日々、慨嘆していた。
 「俺たちの魂は、いったい自由になることができないのか。
 何かに自己規制を強いられていて、毎日が重苦しい気持ちで嫌になっちゃう。
 青空が見えるのに、野には花が咲いているのに、何か囚人のように、胸を張ることもできず、希望に燃えて生きゆくこともできず、なんとも言えない失意に埋もれてしまっている」と。
 道行く人にも、笑顔が少なかった。
 ある日、たまたま、どこかの職場の人たちが、粗暴な動作をしながら、乱痴気騒ぎで鬱憤晴らしをしていた。
 「さあ、行こう!」と、親友である私の友は、その騒ぎを無視しながら言った。
 「俺は、今日は脇腹が痛いんだ」と、お腹がすいたことを、そのような表現で、はぐらかす友人であった。
 森ケ崎の海岸を歩きつつ、草を噛み砕く真似をしながら、長い間、友人は真剣に語った。
 「俺は、祖国が嫌いだ。日本が怖い。いつの日か、ヨーロッパに去って行きたい。泳いで、海の風に乗りながら、外国へ行きたい」
3  空襲を恐れて、町々の夜の電気は暗く、着る物もなく、食べる物もなく、住む家もなく、声も小さく、どこかへと去りゆく人の姿も、哀れに見えた。
 「何かに救われたいな。
 このままでは、俺は、死者になってしまう。もう明るい世界はなくなった。未来の世界はなくなった。
 これからが、本当の青春の時代だというのに、先はもう真っ暗で、俺には見えない。
 太鼓でも叩いて、何か叫びたい。しかし、俺は、一日一日、だんだんと虚無の世界へと堕ちていくような、暗澹たる日々が続いている。
 今は、戦争に沸き立つ自分の国を思っても、まったく感動が湧かない。俺は、弱すぎるのか」と嘆いていた彼。
 「侮辱するなら、侮辱せよ。
 軽薄な人間と言うなら、勝手に言えばいい。
 ただ俺は、俺の魂を、俺が立ち去ったあとでも、大切な友にわかってもらえるような、堅固なものにつくりたい。揺るぎない生命を、魂をつくりたい。
 俺の財宝は、命である。
 その命を、どのようにして栄光の勝利へと、飾っていけるのか?
 その途中の汚辱、残酷、誘惑に憤激しながら、どのようにして、立ち向かっていけばいいのか?
 俺の前には、宝石のような輝きは何も見えない。俺の横には、泥沼の道が続き、絨毯のような温かさも全く感じられない。
 いったい、荒れ狂う現実は、俺の人生を、どのように弄んでいきたいのか?
 ありとあらゆる怪物的な社会の変動の果てに、俺は疲れ切ってしまったが、どす黒い嵐の空の彼方に、自分自身の心底から願望し、渇望しゆく、永遠性の実在があるはずだ。
 その不可思議な人間の魂、宇宙の生命というべき宝を、真剣に思念し始めた。
 いかなる致命的な大洪水があっても、それを乗り越えていく力があるはずだ。その輝く力の実体を、直接、俺は掴みたい。
 いかに汚れた大通りを通っても、また血が流された苦悩の道を突き抜けても、混沌の彼方に花々の咲く沃野をめざして進みたい」
 友の両眼より、熱い涙が溢れていた。
4  風が吹いていた。家々の窓を叩きながら。
 友人と私の対話は続いた。
 ――多くの人びとは、精神の惰眠の習性を身につけている。心の窓を開けて、はっきりと見定める手だてをもっていない。
 しかし、今の権力者たちの心は、すでに腐乱し始めた。
 久しく見失っていた、大いなる希望が、大きな叫びとなって、連帯の輪を広げ始めようとしている。
 「希望」は来る。しかもまた、負けずに「絶望」も来る。その「絶望」をも、「希望」に変えゆく力があるにちがいない。
 ゆえに、絶対に絶望に屈せず、自分自身に生き抜く厳粛な生命を創り上げることだ。
 そのための「哲学」は、どこにあるのか?
 そのための「師匠」は、どこにいるのか?――
5  もう五十五年以上も前の語らいを思い返しながら、私は、友人への手紙を綴った。
 同級生のなかには、戦争の犠牲になった友も少なくない。混乱の続くなかで、いつしか消息が途絶えてしまった友も多い。
 しかし、私の胸の奥には、いつまでも、少年の日の面影のままに刻まれている、故郷の宝の仲間たちがいる。
6  私とほぼ同年代のゴルバチョフ元ソ連大統領は、私たちは「戦争の子供」の世代であると表現していた。
 確かに、旧世代が引き起こした戦争の苦悩と辛酸を、否応なしに体験せざるをえなかった。
 だからこそ、未来の新しい世代の子供たちには、二度と、このような悲惨を味わわせてはならない。
 戦争のない「平和の世紀」を、断じて開いていかねばならない。これが、私たちの宿命であり、使命であるはずだ。
 幸いにも、私は、戸田先生に巡り会った。
 この人生を、先生の弟子として戦い抜いてきた。
 その先生から託され、私が生涯を賭けた「教育」の事業は、いま、アメリカ創価大学の建設に入っている。
 いつの日か、太平洋の青き大海原から新しき風の吹くオレンジ郡キャンパスで、わが友と、あの森ケ崎海岸の対話の続きをと、思い描いている。

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