Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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常勝の前進・岡山 激戦の歴史に輝け正義の旭日

1999.6.18 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  ロシアの文豪トルストイは言った。
 「精神の成長を得よ。そして他の人々の精神の成長を助けよ。この中に、一切の生活が存在しているのだ」(『人生読本・全』八住利雄訳、清教社)
 仏法の意義を、正しく証言している言葉である。
2  ともあれ、創価学会は、どこまでも広宣流布の団体である。
 広宣流布は、蓮祖の究極の大慈大悲の命令であるからだ。
 いかに迫害があろうが、批判されようが、現実に「折伏を行ずる人」が、最も尊い。「法を弘め抜いた歴史」が、永遠不滅の功徳となり、生命を輝かせていくからだ。
 いうまでもなく、その黄金の金字塔が、一九五六年(昭和三十一年)の五月、わが大関西の大阪支部が打ち立てた「一カ月で一万一千百十一世帯」の折伏であった。
 創価の同志はもとより、日本の仏教界を「あっ」と言わせたのであった。
 この時、九百九十九世帯という「地区日本一」の弘教を達成したのが、大阪支部所属の岡山地区である。
 当初、岡山の同志は、「あと一世帯で千世帯だったのに」と、皆が悔しがった。
 しかし、支部総体として「一」が五つ並んだ、すばらしき結果を見つめながら、皆は、壮大なる歴史の光に、深き喜びを実感していった。
3  翌六月の二十九日には、五十六歳になっておられた戸田先生を、初めて、かの黒塗りの岡山城で有名な、烏城うじょう公園での野外集会にお迎えした。
 その時、岡山はもちろん、中国・四国の各地から、一万人の同志が集まったが、草創の友は、今なお、当時を語り合うことを楽しみにしている。
 長い行列のうねりに、多くの市民は瞠目して、「新しい時代の壮観さを見た」と語っていた。
 岡山の大地は明るかった。澄みきった透明な微風が、果てしなく流れていた。
 創価の岡山城は、あの″常勝関西″とともに、厳然と建設された。汗と涙と歓喜の、偉大な信仰の曲とともに、誕生したのである。
 ゆえに岡山には、力強く厳粛にわき上がる、幾千幾万の強き祈りの血が流れている。邪悪を断じて許さない、との正義の雄叫びが轟いている。
4  激しい「大阪の法戦」に続いて、私の絶え間ない反撃と逞しき生命の前進の舞台は、はつらつと新しい人間の声が聞こえてくる山口県であった。ここは、多くの著名な権力者が生まれ、長い間、総理級の地盤とされていた名高い天地である。
 この年(一九五六年=昭和三十一年)の十月、岡山の最初の指導を終えた私は、近くに仲間もなく、孤独なる一本の樹のごとく、一人、下関に、その第一歩を印した。
 「この地も、必ずや、不思議な広布の記念〈かたみ〉の地として、歴史に残さむ」と誓って、戦いを進めた。
 疲れた、頑丈な体躯ではない、一青年の歩む姿を、無造作に家々の並ぶ、その街の人びとは、「どこから来て、何をするのであろう」と不審げに見ていた。
 やがて、両の拳を掲げる勢いで孤軍奮闘する、この痩せた青年のもとに、初代の岡山支部長となったばかりの故・山田徹一さんらが、応援に来てくれた。
 皆、空腹に疲れていても、満月を仰ぎながら、共に戦った懐かしい方々である。
 熾烈な戦いが、本物の獅子を育てる。
 広布の激戦のなかで、鍛えられ、磨かれ、強くなったのが、岡山の誇りである。
5  さらに岡山には、常に燃え上がる「求道心」があった。
 戸田先生や私が大阪を訪れるたび、走り飛ぶように来ておられた、山田さんらの生き生きとした顔が忘れられない。
 かつて、小学校の代用教員であった山田さんは、戦後、メッキと塗装の工場を経営していた。一九五四年(昭和二十九年)、東京にいた兄が足立支部の青年から折伏され、その兄の紹介で入会したのである。
6  また岡山の友は、山陽道を往来する幹部がいると聞けば、必ず岡山に寄ってもらい、熱心に指導を求めた。「岡山の関」――いつのころからか、こう呼ばれていたことは有名である。
 その真剣さを知るある幹部は、「岡山へ行く時は、ビタミン注射でも四、五本打たないと体がもたない」と、真顔で言っていたものだ。
 「求道」の人には、常に前進がある。惰性の眠りを覚ます、革新の響きがある。
 その生命には、昨日の自分を乗り越えゆく、堂々たる勝利の「旭日」が昇る。
7  御書に「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」と仰せである。
 仏意仏勅の創価学会であるがゆえに、学会を狙う、提婆達多のごとき大悪人、退転者が出現することは必然である。
 戸田先生は、退転者の本質的な傾向性について、それはそれは厳しく指摘されていた。
 「彼らは、ともかく、臆病である。慢心である。ずる賢き、策略家であり、嘘つき、虚栄家である。
 しかも、信頼する幹部のなかから増上慢になって出てくる場合が多いものだ。偉くしてもらいながら、傲慢になり、信心がわからなくなって、最後は、暗き心と化して、反逆者となって狂い始める。
 大聖人の御入滅後も、当時の最高幹部であった五老僧は、『我賢し』と思って、日興上人の正法正義に従わず、退転していった」と。
 さらにまた、「学会は獅子である。外からは倒されない。怖いのは、内から腐らせる『獅子身中の虫』だ。もしも、そういう邪悪な輩が現れたなら、断固、戦え! 断固、叩き出せ!」とは、牧口会長の叫びであった。戸田会長の厳しき叱咤であった。
8  「アメリカの良心」と敬愛されたノーマン・カズンズ氏が、「地獄の中の地獄」がいかなるものか、書いておられる。
 「これは、本来理想主義を抱きながら、それに叛いた人々、高潔の意味を知りながら、それに反した人々、品位を理解しながら、それを避けた人々の落ちる地獄である。最後にこれは、天賦の生命という意味を心得ておりながら、その生命を価値あらしめなかった人々の落ちる地獄である」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)
 いわんや、あいがたき仏法に巡りあいながら、同志を裏切り、正法に違背していった人間の末路が、どんなに無残で哀れであることか。
9  一九九三年(平成五年)の十一月二十九日、八年ぶりの岡山の一夜は、煌々たる満月であった。私は詠んだ。
  永遠に
    興隆 燦たる
      満月城
    その名は 岡山
      不滅の城かな
 翌日、私は、初めて瀬戸大橋を渡って四国に向かった。
 その際、忽然と、橋の上空の鉛色の雲が割れ、まばゆい太陽が王者の姿を見せてくれた。
 それは、赫々と正義の旭日が昇りゆく、新世紀の岡山の朝を励ますかのようであった。
 私も妻も、いつか新生の岡山文化会館を訪問できる日を、楽しみにしている。

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