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日蓮大聖人・池田大作

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創価の父・牧口先生 大人格に輝く″優しさ″と″強さ″

1998.6.3 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  わが創価の父である、初代会長牧口先生の、あの眼光鋭いお写真を拝見すると、「謹厳実直」という言葉が浮かぶ。
 事実、弟子たちにも厳しい師であられたようだが、最も厳しかったのは、ご自身に対してであった。
 軍部政府の弾圧と戦い、殉教された、巌のごとく不動な、強き信念が、それを明確に物語っている。
 「5・3」を記念する本部幹部会で、私は、かつて牧口先生が、東京高等工学校(現在の芝浦工業大学)で、「倫理学」を講義されていたことを紹介させていただいた。
 その講義を受けた方の回想によると、世界平和を希求されていた先生は、当時の日本人が一様にいだいていた、中国人に対する蔑視と偏見を、厳しく正されたという。
 「中国人を嘘をつく民族のようにいう人がいるが、それは違う。もし、中国人がそんな民族なら、なぜ五千年にわたって偉大な文化を継承できたか。道理に合わないではないか」
 「こちらが相手を信じ、腹を割って付き合えば、必ず相手も応えてくれる。それが価値論です」
 日中戦争のさなかでの発言である。偏狭な島国根性を打ち破る主張であった。
 この受講生は、その後、学業半ばに、兵隊として中国へ。現地で、中国の人びとと接するなかで、まったく牧口先生が話されていた通りだと実感したそうである。
2  牧口先生は、投獄されてからも、取り調べの場で、検事らに堂々と宗教の正邪を論じられている。また、看守も折伏されている。
 先生には、微塵も、恐れや妥協はなかった。
 拘置所にあって、高齢の先生のお体の衰弱は、日ごとに激しさを増していった。看守からも、何度も病監に移るように勧められたが、先生は、それを断り続けてこられた。
 病監に移られたのは、死の前日であった。
 衰弱の極みに達していた先生を見兼ねて、看守が「背負おうか」と聞くと、先生は「大丈夫」と、自らの力で歩かれた。
 途中、足がもつれて転んだが、それでも看守の手を借りることを、潔しとされなかった。
 最後まで、敢然と法難に挑まれた、獅子王の心意気がしのばれてならない。
 ――先生のご子息・洋三さんの夫人・貞子さんが、看守から聞かれた話である。
3  しかし、牧口先生はまた、限りなく、温かく、優しいお人柄であった。
 若き日、先生が、北海道師範学校(現在の北海道教育大学)の付属小学校で、教鞭をとられたころのことである。
 雪の降る日など、先生は、外に出て、登校する子供たちを迎えた。そして、小さい子を背負い、大きい子の手を引いて歩かれていた。
 特に、体の弱い子には、細心の注意を払われた。
 あかぎれの子がいれば、教室でお湯を沸かし、手を洗ってあげていたといわれる。
 また、三笠小学校の校長時代には、弁当を持参できない子供のために、ご自分で弁当を用意されたことはよく知られている。
 一人ひとりの子供の状況を把握し、心を砕かれる、まさに慈愛の先生であられた。
4  ある冬の夜、指導を受けに来た会員の婦人が、幼子を背負って帰ろうとすると、先生が言われた。
 「風邪を引かせてはいけない。こうすれば、一枚よけいに着たのと同じだよ」
 そして、子供の背中に、畳んだ新聞紙を入れてくださったという。
 木枯らしの吹きすさぶホームで、老婦人の下駄の鼻緒を、すげてあげていたこともあったようだ。
 なんと、こまやかな心遣いであろうか。
 殉難をものともせぬ「強さ」と、この「優しさ」こそ、牧口先生の人格の偉大さを物語っている。
 先生は、どこまでも民衆を愛し、慈しむがゆえに、敢然と正義の旗を掲げ、邪悪とは、阿修羅のごとく、戦い抜かれたのだ。
 また、強靭な信念と、何ものも恐れぬ勇気があるからこそ、人を限りなく優しく包み込むことができるのである。
 本当の「優しさ」とは、「強さ」に裏打ちされていなければならない。
5  「悪」を見て見ぬふりをし、何もしなければ、皆が不幸になる。そうした社会を、私は憂える。
 「善いことをしないことは悪いことをしたのと同じである」と断じた、牧口先生の一貫した生き方にこそ、真実の人道がある。
 今月で牧口先生の入信七十周年になる。また、六月六日には、先生の生誕百二十七周年を迎える。
 その先師が示した人道の旗を高らかに掲げ、悪と戦い、人格の光彩をもって、友を包みゆくなかに、創価の精神の継承があることを忘れまい。

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