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第十一章 「ユマニテの光」で世界を照ら…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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8  『二都物語』に描かれる「自己犠牲の愛」
 金庸 そうでしたか。
 ところでユゴーといえば、中国ではロマン派の作家としての評価が高く、その恋愛物語が、よく読まれています。
 中国の文学や戯曲における悲恋物語は、真剣に愛し合っているにもかかわらず、家庭や社会といった外的要因にさまたげられて、結ばれることのない男女を描く場合がほとんどです。『梁山伯と祝英台』などは、その典型といえるでしょう。西洋でいえば、『ロミオとジュリエット』に類似性を求めることができます。
 池田 一九九七年年二月に香港で開かれたSGIの「世界青年平和文化祭」で、中国の国民的歌手の毛阿敏さんが、その『梁山伯と祝英台』の物語をテーマにした美しい歌を披露してくださいました。
 金庸 ええ、たいへん見事でした。しかも、その曲の演奏は、ギター、二胡、中国笛、ハープ、ドラムと、「東西の出合い」という文化祭のテーマを象徴するステージでした。
 ところで、近代に入ると、西洋の愛情物語は、恋人のことを心から愛するために、敢えて自分を犠牲にする男性、ないしは女性が描かれるようになります。
 イギリスの小説家ディケンズの『二都物語』を例にとりましょう。
 フランス革命の時代に生きる青年チャールズ・ダァネーと少女ルゥシーは、相思相愛の仲です。ほかにダァネーとそっくりの顔かたちをしているシドニー・カートンという青年がおり、ルゥシーを熱愛しますが、彼女は相手にしません。ルゥシーは後にダァネーと結婚します。
 ところがダァネーは革命のために逮捕され、死刑を言い渡されます。このときカートンは、愛するルゥシーのためにダァネーの身代わりになることを決めます。そして、ひそかに牢獄に侵入して、ダァネーと入れ替わり、断頭台の露と消えていくのです。
 池田 カートンの自己犠牲の背景には、宗教的な信条があったように思います。物語の一節に「イエス言いたまう『我はよみがえりなり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、とこしえに死なざるべし』」(『世界文学全集(第二期)6』所収の猪俣礼二訳「二都物語」河出書房)とあります。このように、自らを犠牲にして永遠の愛に生きるという、宗教的な信念に裏づけられているといえるでしょう。
 また、先ほど触れた点にも関係することですが、『二都物語』で見逃してはならない点は「レッテル貼り」の恐ろしさでしょう。この物語によれば、フランス革命当時の旗には、たとえばこう書いてあったという。「一にして二なき共和国。自由、平等、友愛か、然らずんば死!」と。
 つまり、敵味方をはっきり分けたうえで「どちらかを選べ」ということです。そうしたレッテル貼りを行うことで、人間の暗い情念を燃え立たせる。一種の歪んだ闘争心を煽り立てる――絵にかいたような「狂信」の構図です。しかし、もし革命が、そうした情念の世界に陥るならば、どんなに高尚な大義や理想を掲げようとも、その精神は、すでに死んでいます。また、必ず破綻せざるをえないでしょう。
9  「ユマニテの光」に満ちた世界とは
 金庸 「無償の愛」を謳った作品としてはユゴーの長編小説『海に働く人びと』も、同様の感動を与えてくれます。青年ジリヤットは、少女デリュシェットを深く愛するゆえに、彼女との結婚の権利を放棄して、その権利を彼女が愛する男性に譲り、二人を結婚させます。その後、ジリヤットは海上の大きな岩に悠然と座り、ひたひたと寄せくる満ち潮に身を任せ、水中へと飲み込まれていきます。
 池田 残念なことですが、日本では『レ・ミゼラブル』ほど知られていない作品です。
 金庸 中国で海外の文学作品が次々と翻訳され、絶頂に達した時期は、一九二○年代、三○年代です。翻訳された作品の大部分は、厳粛なテーマを担った大長編でした。たとえばトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ロマン・ロランなどです。
 これまで先生と語り合ってきたユゴーの小説は、切々とした悲哀を帯びたロマン派の愛情物語として受け止められてきました。そのために、革命小説を好み愛国精神に満ちた進歩的な翻訳家たちから、好意を寄せられることはありませんでした。たとえ多くの時間と労力を費やして、こうした愛情物語を翻訳した人がいたとしても、批評家の攻撃にさらされていたにちがいありません。
 池田 そうですか。しかし、それは明らかに曲解ですね。私は「進歩」や「革命」について、ユゴーほど正しいスタンスで考えていた人も少ないと思います。つまり、イデオロギーのスタンスではなく、人間のスタンスで――。
 ユゴーは『レ・ミゼラブル』の一節に、こう記しています。
 「市民諸君、今日何が起ろうと、勝っても、負けても、われわれがやろうとしているのは、革命である。火事が町全体を照らすように、革命は人類全体を照らす。それではどんな革命をやろうとしているのか?さっき言ったように、真実の革命である。政治的観点からすれば、ただ一つの原則があるだけだ、つまり、人間の人間にたいする主権である」(前掲書〈5〉)
 「ユマニテの光」に満ちた「世界」を実現しなければ、すでに革命の名に値しない、という主張でしょう。
 ソビエト連邦が崩壊したとき、"ロシア人がフランス革命の幕引きをした"ということがいわれました。つまり、左翼のイデオロギーからみれば、ロシア革命はフランス革命の延長上で、とらえられていた。したがってロシア革命の挫折は、フランス革命が提起した課題そのものの終焉を意味するのだ、と。
 しかし、そうしたイデオロギーのスタンスが色あせてくればくるほど、輝きを増してくるのは、人間のスタンスです。二十世紀が、「戦争の世紀」と呼ばれるほどの、悲惨と殺戮を繰り返してきたのも、まさに人類全体を照らす「ユマニテの光」という一点を見落としてきたからではないでしょうか。
 その意味でもユゴーは、もっともっと読まれるべき作家であり、読み返されるべき作家であると信じます。

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