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第十一章 「ユマニテの光」で世界を照ら…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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7  悪のしつこさに打ち勝った「誠実さ」
 金庸 ところが、そこに登場するのが、先ほど池田先生が触れられた、警部のジャヴェールです。ジャヴェールは以前、監獄に勤めていたことがあり、市長がジャン・バルジャンではないかという疑いを、執拗にもち続けます。
 ジャヴェールが、証拠を握ろうと躍起になっていたある日のこと。荷馬車が転倒して、一人の老人が下敷きになっているところを通りかかります。一刻の猶予も許されない、危険な状況です。このとき、ジャン・バルジャンが人並みはずれた体力で、荷馬車を押し上げ、老人の命を救います。
 警部は、その怪力を目の当たりにして、彼こそが獄につながれていたジャン・バルジャンであるという確信をもち、上司に報告します。
 池田 ジャヴェールという男は、とにかくしつこい(笑い)。毒蛇のような執念深さと陰湿さを発散しています。しかもそれを正義と思い込んでいる度し難さ。ともかく読んでいて嫌になるぐらい、悪の代名詞のような人間です。
 この人物が端的に象徴しているように、とかく悪というものは、根強く、しつこく、執念深いものです。私どもの牧口初代会長は、"悪と戦わない善は悪に等しい"と叫びました。悪と戦う以上、善にも悪と同じくらいの執念、粘り強さがなければいけません。でなければ、悪に競り負けてしまいます。
 金庸 ええ、まったくそのとおりです。
 ジャン・バルジャンの工場に勤める、ある女工は、一人娘を里子に出していました。しかし里親から再三ゆすられる。養育費が払い切れないため、やむなく娼婦に身を落とし、お金を稼ぎます。工場長は彼女を解雇しようとしますが、ジャン・バルジャンは事情を知って彼女を入院させ、治療に専念させます。そして娘のコゼットを引き取り、母と娘が一緒に暮らせるように計らおうとします。
 一方、ジャヴェール警部はジャン・バルジャンに対し、自分の疑いは勘違いだったとして、過ちを認めたふりをします。そして同時に、囚人ジャン・バルジャンが逮捕され、すでに収監されていると告げるのです。
 池田 それは、「絶対に良心を偽らない」というジャン・バルジャンの、いわば一番の泣きどころを、見事に突くものでした。ユゴーの作劇法の巧みなところです。
 金庸 「誠実の人」ジャン・バルジャンは、自分に代わって罪を背負っている人間がいることを知ります。当然のことながら、心の中が波立ちます。苦慮の末、彼は自ら進んで裁判所に出向き、自分こそがジャン・バルジャンであると告白します。冤罪を被った人を助けるために、自分が獄に入ろうと決めたのです。
 しばらくして、ジャン・バルジャンは再び脱獄します。このとき、娼婦をしていた女工は病の末、すでに亡くなっていました。そこでジャン・バルジャンは孤児となったコゼットを連れてパリに出て、彼女を育てます。
 コゼットは成長すると、隣に住む青年マリユスと恋に落ちます。ほどなくパリの群衆が蜂起し、マリユスもそれに加わります。政府軍との対立は、武力衝突へと発展していく。
 そのさなかジャヴェールが群衆に捕まり、死刑に処せられようとします。ジャン・バルジャンは混乱のなかで、それがジャヴェールだと知ると、彼を救い、逃がしてやります。また、下水道をつたってマリユスを救い出すのです。
 ジャヴェールは命を救ってくれた人がジャン・バルジャンであるとわかっても、警察官としての責務から、依然として彼を逮捕し、裁判にかけることを願います。しかしついには良心の呵責に耐えかねて、セーヌ川に身を投げ、自らその命を終わらせます。
 池田 ジャヴェールの自殺にいたるくだりには、こうあります。
 「心のうちに、これまで彼の唯一の尺度であった法律的な確信とは全く別な、一つの感情的な啓示が生れた。以前の実直さにとどまるだけでは、もう満足できなくなってきた。一連の意外な事実が起って、彼を圧倒した。新しい世界が、彼の魂の前に出現した。つまり、受けて返す善行、献身、慈悲、寛大、情けにほだされて威厳をくずすこと、個人を重んじること、決定的に人を裁くことも、罰することもできないこと、法の目にも涙がありうること、神の正義とでもいえる何かが人間の正義とあべこべになっていること。彼は、暗闇の中に未知の道徳の恐ろしい日の出を見て、おびえ、目がくらんだ。鷲の目を持つことを強いられたフクロウ……」(前掲書〈5〉
 ジャン・バルジャンによる「徳の勝利」の、ハイライトともいうべきくだりでしょう。
 金庸 ジャヴェールの投身自殺のシーンは、どのミュージカルでも、一番、劇的効果を狙って工夫を凝らしているようですね。
 やがてマリユスはコゼットと結婚します。このときマリユスは、ジャン・バルジャンから彼が脱獄囚であることを聞かされ、その後はジャン・バルジャンを疎んじるようになります。最後にジャン・バルジャンが命の恩人であったことを知り、自分が間違っていたことを悟って、彼のもとへ駆けつけます。しかし、ジャン・バルジャンはそのとき、もうすでに危篤状態にありました。
 池田 『ノートルダム・ド・パリ』と同じように、「無償の愛」の気高さですね。涙なくしては読めない場面です。
 金庸 まったく、そう思います。美しい場面です。
 この小説は、たいへん長く、そこには深刻な社会問題が数多く描き込まれています。すなわち、個々の人間がもつ善良さとの対比のなかで、社会制度の残酷さが、読者に示されているのです。
 資本主義の制度は、個人の財産を保護するために、残酷な手段をあれこれ用いて、下層階級の人民を抑圧します。しかも、これを改める契機は、そう簡単には訪れそうもありません。
 その最たるものが、警察権力です。冷酷非情に法を執行することが、まるで天地の大義であるかのようにわきまえ、人情や人間性など、まったく顧みません。
 池田 ユゴーの一生は、そうした抑圧と戦い続けた一生でした。
 一九八一年の六月、フランス上院のポエール議長との会見のため、上院の議場を訪れる機会がありました。そのおり、ユゴーが国会議員として座っていた椅子を見ました。
 青年時代より愛読してやまなかったユゴーが、ここから正義の熱弁をふるっていた。民衆擁護の「言論の矢」を放っていた――その偉大な生涯をしのび、感慨を新たにした思い出があります。
8  『二都物語』に描かれる「自己犠牲の愛」
 金庸 そうでしたか。
 ところでユゴーといえば、中国ではロマン派の作家としての評価が高く、その恋愛物語が、よく読まれています。
 中国の文学や戯曲における悲恋物語は、真剣に愛し合っているにもかかわらず、家庭や社会といった外的要因にさまたげられて、結ばれることのない男女を描く場合がほとんどです。『梁山伯と祝英台』などは、その典型といえるでしょう。西洋でいえば、『ロミオとジュリエット』に類似性を求めることができます。
 池田 一九九七年年二月に香港で開かれたSGIの「世界青年平和文化祭」で、中国の国民的歌手の毛阿敏さんが、その『梁山伯と祝英台』の物語をテーマにした美しい歌を披露してくださいました。
 金庸 ええ、たいへん見事でした。しかも、その曲の演奏は、ギター、二胡、中国笛、ハープ、ドラムと、「東西の出合い」という文化祭のテーマを象徴するステージでした。
 ところで、近代に入ると、西洋の愛情物語は、恋人のことを心から愛するために、敢えて自分を犠牲にする男性、ないしは女性が描かれるようになります。
 イギリスの小説家ディケンズの『二都物語』を例にとりましょう。
 フランス革命の時代に生きる青年チャールズ・ダァネーと少女ルゥシーは、相思相愛の仲です。ほかにダァネーとそっくりの顔かたちをしているシドニー・カートンという青年がおり、ルゥシーを熱愛しますが、彼女は相手にしません。ルゥシーは後にダァネーと結婚します。
 ところがダァネーは革命のために逮捕され、死刑を言い渡されます。このときカートンは、愛するルゥシーのためにダァネーの身代わりになることを決めます。そして、ひそかに牢獄に侵入して、ダァネーと入れ替わり、断頭台の露と消えていくのです。
 池田 カートンの自己犠牲の背景には、宗教的な信条があったように思います。物語の一節に「イエス言いたまう『我はよみがえりなり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、とこしえに死なざるべし』」(『世界文学全集(第二期)6』所収の猪俣礼二訳「二都物語」河出書房)とあります。このように、自らを犠牲にして永遠の愛に生きるという、宗教的な信念に裏づけられているといえるでしょう。
 また、先ほど触れた点にも関係することですが、『二都物語』で見逃してはならない点は「レッテル貼り」の恐ろしさでしょう。この物語によれば、フランス革命当時の旗には、たとえばこう書いてあったという。「一にして二なき共和国。自由、平等、友愛か、然らずんば死!」と。
 つまり、敵味方をはっきり分けたうえで「どちらかを選べ」ということです。そうしたレッテル貼りを行うことで、人間の暗い情念を燃え立たせる。一種の歪んだ闘争心を煽り立てる――絵にかいたような「狂信」の構図です。しかし、もし革命が、そうした情念の世界に陥るならば、どんなに高尚な大義や理想を掲げようとも、その精神は、すでに死んでいます。また、必ず破綻せざるをえないでしょう。
9  「ユマニテの光」に満ちた世界とは
 金庸 「無償の愛」を謳った作品としてはユゴーの長編小説『海に働く人びと』も、同様の感動を与えてくれます。青年ジリヤットは、少女デリュシェットを深く愛するゆえに、彼女との結婚の権利を放棄して、その権利を彼女が愛する男性に譲り、二人を結婚させます。その後、ジリヤットは海上の大きな岩に悠然と座り、ひたひたと寄せくる満ち潮に身を任せ、水中へと飲み込まれていきます。
 池田 残念なことですが、日本では『レ・ミゼラブル』ほど知られていない作品です。
 金庸 中国で海外の文学作品が次々と翻訳され、絶頂に達した時期は、一九二○年代、三○年代です。翻訳された作品の大部分は、厳粛なテーマを担った大長編でした。たとえばトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ロマン・ロランなどです。
 これまで先生と語り合ってきたユゴーの小説は、切々とした悲哀を帯びたロマン派の愛情物語として受け止められてきました。そのために、革命小説を好み愛国精神に満ちた進歩的な翻訳家たちから、好意を寄せられることはありませんでした。たとえ多くの時間と労力を費やして、こうした愛情物語を翻訳した人がいたとしても、批評家の攻撃にさらされていたにちがいありません。
 池田 そうですか。しかし、それは明らかに曲解ですね。私は「進歩」や「革命」について、ユゴーほど正しいスタンスで考えていた人も少ないと思います。つまり、イデオロギーのスタンスではなく、人間のスタンスで――。
 ユゴーは『レ・ミゼラブル』の一節に、こう記しています。
 「市民諸君、今日何が起ろうと、勝っても、負けても、われわれがやろうとしているのは、革命である。火事が町全体を照らすように、革命は人類全体を照らす。それではどんな革命をやろうとしているのか?さっき言ったように、真実の革命である。政治的観点からすれば、ただ一つの原則があるだけだ、つまり、人間の人間にたいする主権である」(前掲書〈5〉)
 「ユマニテの光」に満ちた「世界」を実現しなければ、すでに革命の名に値しない、という主張でしょう。
 ソビエト連邦が崩壊したとき、"ロシア人がフランス革命の幕引きをした"ということがいわれました。つまり、左翼のイデオロギーからみれば、ロシア革命はフランス革命の延長上で、とらえられていた。したがってロシア革命の挫折は、フランス革命が提起した課題そのものの終焉を意味するのだ、と。
 しかし、そうしたイデオロギーのスタンスが色あせてくればくるほど、輝きを増してくるのは、人間のスタンスです。二十世紀が、「戦争の世紀」と呼ばれるほどの、悲惨と殺戮を繰り返してきたのも、まさに人類全体を照らす「ユマニテの光」という一点を見落としてきたからではないでしょうか。
 その意味でもユゴーは、もっともっと読まれるべき作家であり、読み返されるべき作家であると信じます。

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