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日蓮大聖人・池田大作

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2 人道の闘士――永遠なる魂の獅子吼  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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10  最後に勝つのは「不屈の魂」をもった者
 池田 どんな偉大な人物でも、その時代から完全に自由でありうるはずはありませんからね。むしろ、そうした人物であればあるほど、余人の与り知らぬ次元で、時代の運命というものを鮮やかに体現しているものです。
 ユゴーについては、雄渾の詩魂から“自由と人道の闘士”としての行動まで、語るべきことはあまりにも多いのですが、なかんずく私が深く共感するのは、彼の何ものにも揺るがぬ「屈せざる魂」であります。
 私の胸には『懲罰詩集』の“結語”の峻厳な一節が迫ってまいります。
 「あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう!
 あと百人しか残らなくなっても、私はなおスラに刃向かおう。
 十人残ったら、私は十番目の者となろう。
 そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!」(『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社)
 この不屈の魂は、またマルティの精神でもありましょう。両者の魂は激しく共振(バイブレーション)したのではないでしょうか。
 ヴィティエール そのとおりです。ユゴーの善意に満ちた威厳あふれる老境を称え、彼が八十歳の誕生日を迎えたとき、マルティは次のような文を書いています。
 「人間が未来をどう生きるのか、理性にかなうものであるかを知っているのは、卓越した人物だけである。
 生きることは、卑しい鳥篭に閉じこめられて、フクロウや鳩と同じように生きる鷲以上のものを意味しているのであろうか? やがて鷲が自由を得て、太陽に向かって羽ばたけるような、輝かしい世の中がやってくることだろう!」
 池田 たしかにユゴーの人生は、迫害と闘い亡命する、身は不自由な人生だったかもしれない。しかし、魂の自由を奪うことは、だれびともできない。「不屈の魂」あるかぎり最後は必ず勝つ――同じように“闘う人生”を歩むマルティならではの確信あふるる言ですね。
 私たちの信奉する日蓮大聖人は、流罪の地(佐渡島)から(鎌倉に)戻ったとき、時の権力者(平左衛門尉頼綱)に厳然と仰せになりました。
 「王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心は従えられません」(御書二八七㌻、通解)と。
 この獅子吼こそ、日蓮仏法の魂です。
 この言葉は、“人権への闘い”の言葉として、ユネスコ(UNESCO・国連教育科学文化機関)の『語録 人間の権利』にも収録されています。
 ユゴーとマルティに共通する「不屈の魂」もまた「獅子吼」となって、悪と闘い続ける人々の心を鼓舞しゆくにちがいありません。
 ヴィティエール 「獅子吼」――その言葉をマルティもきっと喜ぶでしょう。
 なぜなら、親友フェルミン・バルデスに宛てた手紙の中で、マルティは一八八七年にサルミエントが示した次の評価に対して、感謝の気持ちを表しています。
 「スペイン語では、マルティの獅子吼にかなうものはない。ヴィクトル・ユゴー以降、フランスは、このような大音響を示してくれない」
 池田 ドイツの作家カロッサが、こんなことを言っています。
 「生き生きとした言葉の発する計りしれない、つねに効果を発揮できるエネルギーのことを知っている者は、なんと少ないことだろう。詩人たちには、心のうちより生まれ、あらゆる世代の力がこもっている詩句があるということ、それについて誰か少しでもわかっている者がいるだろうか。そのような詩句は、放射性元素に似ている。いや、それよりもさらに驚嘆すべきものだ。なぜなら、たとえ詩人の肉体が地上から消え失せたとしても、その詩句はなおも世界の諸力を引き寄せ、新鮮な生命の潮を勢いよく、永遠に周囲に流出しつづけるからである」(「ルーマニア日記」金子孝吉訳、『ハンス・カロッサ全集』7所収、臨川書店)と。
 詩人の言葉は、永遠の生命をもつ――マルティは、そのことを確信していたでしょうし、私もまたそう信じる一人なのです。

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