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日蓮大聖人・池田大作

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3 家族――その人間愛を世界に広げて  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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15  「人権」の平等性と「人格」の多様性
 ヴィティエール 古典が不滅なように、偉大な言葉というものは、いつまでたっても輝きを失いません。
 現在、世紀末の人類が直面している危機に対して、マルティは私たちに多くの言葉を残しています。
 女性についてのマルティの理念を、私の妻フィナ・ガルシア・マルースが注解したものですが、要約してお伝えしたいと思います。
 十九世紀にアメリカ合衆国は北半球で最強の国となり、君主制をとる国々に対して民主主義を代表するという名誉を担うようになって、近代精神の模範のごとくアメリカ大陸の他の国々、および世界中を支配するようになりました。
 同様の根拠から、アメリカ合衆国の資本主義によって産出された女性のひな型が、手本とするべき近代的女性のモデルとして流布されてきたのです。イスパノアメリカの女性たちは“遅れている女性”と見なされ、彼女たちは合衆国的女性というタイプを模倣し始めました。男性と同等の権利(投票権、教育、労働、経済的独立、離婚)を擁護するようになりましたが、同時に女性的なるものという本来の美徳から遠ざかってしまいました。
 池田 自由や平等のやみくもな要求が、家族をはじめとする共同体を崩壊させてしまう危険性は、近年ますます顕著になっているという指摘があります。人間は、一人で生きているのではないのですから、本然的に“絆”を求めているものです。
 その意味で、『歴史の終わり』によって、リベラルな民主主義の勝利を宣言して、センセーションを巻き起こしたフランシス・フクヤマ氏が、次の著書を『信頼』(邦題・『「信」無くば立たず』加藤寛訳、三笠書房)としたのは象徴的です。
 人間が人間であるかぎり、信頼の絆のなかでしか、本当の喜びも幸福感も味わえないからです。
 ヴィティエール もちろん、私はフクヤマ氏の『歴史の終わり』で述べられているテーゼ(命題)には、共感しません。
 そのうえで、あなたのおっしゃるプロセス(過程)は近代一般に見られる特徴ですね。
 世界的規模の近代性の特質ともいえるこのような推移を前に、女性特有の諸問題に対して、マルティは共感者であるとともに先見性のある態度をとったのです。
 一方では、あらゆる分野での女性の向上と男女の権利の平等に賛成していましたし(たとえば一八七七年、グアテマラの“新法”に対して述べた賛辞に明らかです)、一方では、合衆国の女性の男性化、男性と同等の権利を求めるだけでなく、過剰なほどの利益追求を、がさつなやり方で行っていることについて警告していました。
 池田 なるほど。自由主義や個人主義などのもたらす光と影を正確に見てとっていたわけですね。まさに先見の人です。
 ヴィティエール 女性の社会解放を行うにあたって、対抗心むき出し、あるいは模倣の時期と呼べるような段階がありますが――かつてそのような時期がありましたし、現在も多くの国では進展を見ない女性疎外をかかえて、そのような段階に置かれています――そうした局面は克服されるべきである、というのがマルティの考えです。
 つまり、公共の権利の平等性と、男女おのおのに備わる美徳を失うこととを混同してはならない、平等である権利のみでなく、女性としてのかけがえのない特性を守り、異なっていることの権利を保障することも必要である、と主張しているのです。
 池田 まったく同感です。「人権」と「人格」は両方相まってこそ、理想的な社会を築くことができます。そして「人権」の側面では、あくまで平等でなければならないが、「人格」の側面では、相違性もしくは多様性こそ、第一義として追求されなければなりません。
16  “女性の時代”へ――桜梅桃李の理想
 ヴィティエール その点を際立たせているマルティ自身の言葉を引いてみましょう。
 「男性に備わっている能力のいくつかが、女性に欠けているのではなく、女性の繊細で、感受性豊かな本性は、より困難で卓越した務めに差し向けられる役割をもっているのです」
 より重大な影響をおよぼす女性たちの役割と価値が人類に認識され、脚光を浴びるその日、「教養があり高潔な女性がその愛情を持って仕事に取り組むときのみ、それは無敵となる」
 「思考というものは、女性たちがそれに親しむようになってこそ確かなものになる」
 「女性は、直感で真実を見抜き、真実を予知する」
 池田 いずれも深い洞察に裏打ちされた珠玉のような言葉ですね。
 ヴィティエール ええ。こうしたマルティが浮き彫りにした女性的・母性的精神の特質(献身、愛情、用心深さ、庇護)が理解されたとき――そのときこそ人類の歴史は“女性の時代”へ確かな一歩を踏み出し始めることでしょう。
 池田 仏法では、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」と説き、桜は桜らしく、梅は梅らしく、そして桃は桃らしく咲き誇っていくのが理想であるとして、多様性をきわめて尊重しています。
 あれになろう、これになろうと外形のみの華美の世界に目をうつろわせるのではなく、まず自分らしい内面の美しさを磨き上げる――まさにマルティの志向するところと呼応しています。

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