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日蓮大聖人・池田大作

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2 師弟――限りなき向上の軌道  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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11  革命闘争を支えた友情
 池田 マルティ以前の革命は、散発的な運動で何度も失敗に終わっています。資金も軍隊ももちあわせていないマルティが、その革命を、なにゆえに「不滅の前進」へと導けたのか。
 私はその一つの側面に、マルティを中心とした「人間の絆」を見たいのです。
 革命のための資金は、友人が出してくれたとうかがっています。
 またマルティは、過去の失敗の反省から、「人間を結ぶ」ことに運動の成否をかけたと考えることができます。
 マクシモ・ゴメス将軍、アントニオ・マセオ将軍ら軍人、アメリカ大陸各地の亡命キューバ人たちを結びつけていく、そのキーワードこそ「友情」であり、「友情」がマルティの大闘争を支えたと私は見たいのです。
 ヴィティエール 大切な視点です。
 あなたは、マルティ以前の革命は何度も失敗に終わった、と指摘されました。
 マルティが組織し指導した解放戦争は「第二次独立戦争」(一八九五年―九八年)と呼ばれています。
 それに先立ってなされた、スペインからの分離独立の動向について、簡単に述べさせていただきたいと思います。
 マルティが生まれたころ、キューバでは、アメリカ合衆国への併合を目的とする謀議がありました。しかし、これはスペイン当局により一八五一年から一八五五年にかけて阻まれました。そして一八六七年、スペイン国会における改革の動きも失敗に終わります。
 その直後の一八六八年十月十日のことです。今も「祖国の父」としてキューバ国民に慕われているカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが、みずから所有していた奴隷を解放して独立戦争を開始したのです。
 池田 「第一次独立戦争」ですね。
 それは十代半ばのマルティを鼓舞し、革命闘争の決起へと一生を決定づけました。
 ヴィティエール ええ。戦争は十年間続きましたが、その間にキューバ国家統合の基礎ができたのです。
 裕福で教養のある愛国者によって始められたこの戦争のなかから、マクシモ・ゴメスやアントニオ・マセオという庶民階級出身の軍事指導者が出現しました。
 しかし、一八七九年に起こった「小戦争」といわれる運動は挫折。さらに、この二人の将軍に主導された一八八四年の計画も失敗に終わりました。
 池田 マルティは「小戦争」に対しては、その性急な武力闘争を思いとどまるよう戒めていますね。
 また、一八八四年の蜂起計画に対しては、文民を除外し、すべての指揮を強力に軍人に統括させようとするゴメス将軍らに、傲慢な独裁の萌芽を嗅ぎ取り、ただちに距離を置いています。
 ヴィティエール ご指摘のとおりです。しかし、ゴメスとマセオの二人の将軍は、やがてマルティ自身が起こした革命運動にとって、欠くことのできない存在となりました。
 池田 そこですね! 一八九三年、革命組織の結集をめざしたマルティは、ひとたびは離れていった二将軍に近づきます。マルティが、
 この年長の二将軍の心をがっちりとつかんでいく場面は、まさに圧巻です。
 電光石火の行動でした。誠実な対話でした。
 ゴメス将軍には、ドミニカの家にまで訪ね、三日間の粘り強い対話を重ねて、完全に味方にした。
 また、コスタリカに追放されていたマセオ将軍には、まずジャマイカに住む夫人と母親のところへ行き、心をこめて激励したうえで、コスタリカの将軍のもとに説得に向かった。
 戸田先生は、よく「人間は感情の動物である。一人一人の心をどうとらえていくかが大事だ」と語っておりました。マルティの行動には、そうした巧まざる人間学が煌いています。
 また、三年前の貴国訪問のさい、私はハバナ市の「最高賓客」称号を授与されましたが、ハバナ市博物館の一室には、マルティと両将軍の大きな肖像画が飾られていました。
 三人の深く結ばれた「人間の絆」を象徴しているように感じました。
12  大闘争を成功に導いた「人間の絆」
 ヴィティエール それまでの革命運動は、たび重なる挫折のなかで、自治主義(スペインのもとでキューバの自治権を求める考え方)やカウディリョ政治体制(軍人主導の政治)、移民同士の分裂、軍人と民間人との対立、人種差別などが際立つようになってしまいました。だからこそ、あなたが強調されたとおり、「人間の絆」が重要だったのです。
 そのうえマルティは、新たな障害を次々と克服しなければなりませんでした。キューバ内外にはアナーキー(無政府主義)的趨勢がありました。さらに、
 世代間に出現した不信もありました。すなわち、たえず最高権力に屈服してきた旧世代の人々と、マルティがあの忘れがたい演説(一八九一年十一月)のなかで「新しい松」と名づけた新しき人々との間に不信が広がっていたのです。
 池田 なるほど。状況はかなり複雑で、おたがいが一致しない面も少なくなかったのですね。そのなかを、粘り強く「人間の絆」を織りなしていった。
 革命をなしとげるには、民衆の心が一つになっていなければなりません。
 長い間の圧制や混乱のなかで、人々の心には、不信や卑屈、怠惰、臆病などの“負”のメンタリティー(精神性)が、澱のようにたまっていた。それを“正”のメンタリティー、すなわち信頼や誇り、努力や勇気などへと転じていかねばならない。
 インドのネルー初代首相は、語っております。
 マハトマ・ガンジーの出現は、長年の植民地支配のもとで虐げられ、いじけていたインドの民衆の心から「どす黒い恐怖の衣」をはぎとり、「民衆の心の持ち方を一変させた」のだ(『インドの発見』辻直四郎・飯塚浩二・●山芳郎訳、岩波書店)、と。
 マルティが粒々辛苦のなかに志向していたのも、そうした「民衆の精神変革」だったのでしょう。
 この精神変革――私どもの言葉で言えば「人間革命」を可能にするには、何が必要か。そのためには、卓越した人物が出現し、優れた範を示していくことです。それ以上の力はありません。
 フランスの哲学者ベルクソンを、私は青年時代に愛読しました。彼は『道徳と宗教の二源泉』の中で「いつの時代にも、この完全な道徳の権化であったような例外的な人々が出現した」(平山高次訳、岩波文庫)として、彼らの存在自体を「英雄の呼びかけ」と名づけました。
 マルティも、おそらく、そのような“英雄”の一人であったにちがいありません。
 ベルクソンは、「なぜ偉大な善人たちはその背後に群衆を従えたのであろうか。彼らは、何一つ要求しない、しかも獲得する。彼らは説きすすめる必要はない。彼らは存在しているだけでよい。彼らの存在がひとつの呼びかけである」(同前)としています。
 この言葉のように、マルティの存在自体が「呼びかけ」となって、多くの人々を引きつけていったのでしょう。
13  「友といる、それが社会である」
 ヴィティエール そのとおりです。もちろん歴史の常として、それは試練の連続でした。マルティは、たえずスペインのスパイ行為に悩まされました。そればかりか、キューバの人々すら、彼のいだく理想に対して、ますます敵対的になっていったのです。
 その逆風のなかで、彼の政治的役割は、「植民地のくびきから解放され、独立した主権をもつ共和国を築こう」と決意しているあらゆる階層、人種、信条のキューバ人たちを、一つに結びつけることでした。
 融合と結合をめざす交渉です。そのためには、イデオロギーと同様に「人格的要素」が重要な役割を果たしていたのです。これは万人の認めるところです。
 それは、彼の業績の魅惑的な側面となっているのですが、じつに友情に関する深い思慮にもとづいているのです。
 友情について、若き日のマルティは「女性の気まぐれを除いた愛という行為である」と言っています。のちには「人生におけるもっとも強力な財産」であるとし、「友といる、それが社会である」とも述べています。
 池田 いかにも、人間愛の人、マルティらしい言葉です。とくに「友といる、それが社会である」など、まことに簡勁で要を得ています。
 私もお会いしたことのある、ある日本の識者(小林秀雄氏)は、「道徳は全て社会的なものだ。(中略)親友を捉めない人は道徳を捉めない」(『常識について』角川文庫)と言っていますが、マルティの言葉と瓜二つといってよいでしょう。
 友情こそ、社会秩序を成り立たしめる根幹なのです。
 ヴィティエール マルティの友情礼讃については、さらに多くのことを付け加えることができるでしょう。同時に私は、彼がこの上なく、心優しく打ち解けやすい人柄の持ち主だったことを強調したいと思います。
 それは彼の生まれついての気性ですが、また“孤独な人間の愛への渇望”とも呼ぶことのできるものなのでしょう。
 彼のほとばしる思いをこめた手紙の多くに、それを感じとることができます。それらは、やむをえなかった亡命生活の非情な空間を埋めるために書かれた手紙でした。しかし、まるで彼にとっては未知の名宛人――後世の人々に対して書かれたものではないか、と思うこともしばしばなのです。
 池田 私どもの宗祖も、宗教的信念においては巌のごとく揺るがぬ大確信の方でしたが、その一方で、無名の婦人や老人に対しては、
 それはそれは情愛あふれる手紙の数々を遺しておられます。
 強さに裏打ちされた優しさ――それは、優れた人格に特有のことなのかもしれません。

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