Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

宝塔と生命の尊厳観  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
4  カラン・シン 虚空会の儀式や多面的世界観のような他に類のない事柄は、いくつかの段階に分けて解釈することができます。
 まず知的な解釈があります。あなたが虚空会や宝塔について説明されたのがそれです。こうした解釈は、合理的・知的に理解するうえで大事なことです。
 次に象徴的な解釈があります。この方法では、宝塔を構成している物質をそれぞれなんらかの美徳にたとえることができ、また宝塔の一つ一つの階層が教義の種々の側面を表しているとみなすことができます。こうした創造的な象徴使用によって、純粋に合理的な解釈であれば、すぐには目につかないような教義の側面に、予想もしなかった光が当てられるということが往々にしてあるのです。
 虚空会や多面的世界観のような事柄には、さらにもう一つの見方があります。それはそうした事柄を内面的な意識のさまざまな状態、というよりは、むしろ意識の高揚されたさまざまな状態を表現したものと見ることです。クリシュナやブッダなどの偉大な教師は、弟子たちの目覚めている正常な意識を目もくらむばかりの美と荘厳の領域へと変える能力をもっているのです。
 こうしたいろいろな解釈は、決してたがいに相容れないものではありません。人間の意識には多くの段階がありますが、『バガヴァッドギーター』や『法華経』などのすぐれた文献は、同時にいくつかの段階に働きかけるものなのです。
 虚空会の儀式と巨大な宝塔に関するご意見のなかで、これらの出来事が何を伝えようとしているのかについてあなたは、それは「有情はすべて生得の仏界を仏性という形でもっているから、普遍的な真実、つまり生命そのものを理解できるようになる」ということであると述べておられます。
 私はヒンドゥー教徒ですから、おっしゃることは、ああなるほどと、ただちに納得できます。つまり、「仏界」とは万物に遍在するブラフマンの光のことであり、また「仏性」とは各個人に内在する不滅のアートマンのことであると解釈するからです。
5  池田 この多宝の塔の儀式は、生命の尊さを表していますが、いつの時代にあっても、人間にとってもっとも大事な課題は、この生命の尊厳性への覚醒ではないでしょうか。それは、みずからの生命を事実のうえにおいて尊厳といえるように、たゆまざる努力を持続していくとともに、あらゆる他者の生命を尊重していくことによって実現されているのです。
 現代文明は、生命の尊厳という理念をかかげることはしても、現実は、欲望や衝動に身をまかせる方向にのみ突き進んでいます。そして、ますます組織化が進む社会のなかで、個人の価値は卑小な部品化の傾向をたどっています。
 『法華経』が宝塔によって訴えている生命尊厳の理念と、その自覚化への教えは、そうした現代文明のあり方に対し、ますます重要性をもっていると私は信じています。
6  カラン・シン あなたは、今日の社会・政治組織においては個人が理不尽な圧迫を加えられる危険性があるといわれましたが、私もまったく同感です。今世紀において、経済的政治的等、さまざまな種類の集合体が、指導者たちの主張する「より大きな」利益のためという名目で、幾百万人の人間をたんなる記号に格下げしてきたのを私たちは見ています。
 であるからこそ、個人の尊厳をもって至上とするヒンドゥー教・仏教の見解がまことに重大な意義をもつことになるわけです。ウパニシャッドでは人間のことを「不滅なものの子ら」と呼んでいます。その意味は、人間にはだれしもみずからの内面の意識を発達させ、ついにはそれを光輝燦たる精神的悟達へと開花させる権利がある、ということです。
 したがって、一人一人が尊く、またかけがえのない存在ですから、個人の尊厳をあくまでも尊重しなければならないのです。

1
4