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日蓮大聖人・池田大作

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世界を変えた″第一歩″の決断 新思考外交とグラスノスチと

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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8  「共生」こそ二十一世紀を開くキーワード
 池田 なるほど。そうした発想は、仏教の根本的なものの見方である″縁起観″へとまっすぐに通じており、感銘を受けました。
 仏教では、人間社会の現象であれ自然現象であれ、単独で起こるような物事は何もなく、すべてはりて、関係し合いながら起きてくると説いています。ですから、AとBが存在する場合、AはBあってのA、BはAあってのBというふうに、A、Bという個別性を重視するよりも、AとBとの関係性を重視します。
 もとより、関係性といっても個別性を軽視したり、まして無視するのではなく、関係性という具体的な″場″があってこそ、はじめて個もそれぞれの輝きを放ってくるとする、きわめてダイナミックな考え方です。
 一九九四年、私はモスクフ大学での講演で、「普遍性」とは、人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が、一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚、コスモス感覚であると訴えました。これは、世界はもともと相互につながり合い、依存し合っているという、あなたの認識と強く共鳴し合うものと思います。その意味からも、私は「共生」こそ、二
 十一世紀を開くキーワードであると信じています。
 ゴルバチョフ 仏教の発想とは若干ニュアンスが違うかもしれませんが、世界の相互連関性という思想は、大学の哲学の教科書にもありました。しかし、この思想は決して現実の政治のなかに取り入れられることはありませんでした。
 現実の政治においては、つねに社会主義の絶対性、人々の分断と対立に力点がおかれていました。
 ですから私たちは、最低限のことをまずやりました。つまり、現実政治を公式的な考え方と合致させたのです。それも一つの跳躍でした。
 当時にあっては斬新だった世界観――人類文明の発展には共通の基礎メカニズムが存在するという認識は、国内政策において新たな展望を開き、わが国の新しい進歩の可能性を開きました。
 全人類的価値と素朴なモラルの復権は、人間の精神的発達をうながし、エゴイズムを抑制する既存のメカニズムとして教会の復権をもたらしました。また、経済発展の道として選択された資本主義は、市場、商品=貨幣関係、企業活動、経済の活性化をうながしています。
 これは、中世のカトリシズムと同じように、企業活動、市場文化そのものを精神的、思想的に抑圧した共産主義思想を経た後に訪れた本格的な突破口でした。このような世界観が、新しい視点、国際関係、国際政治の本質に到達するのは必然のことでした。
 池田 ゴルバチョフ外交は、それがハッキリと現れ、世界中から注目されましたね。
9  人間が人間であるための「常識への回帰」
 ゴルバチョフ そうです。こうした世界観にもとづいた対外政策は、わが国が資本主義文明の成果と、人類的問題の解決を探るうえでの経験を、できるかぎり習得できるものでなければなりませんでした。
 たんなる協調行動、共存ではなく、全人類的価値の保存と実現のメカニズムを取り入れていかなくてはなりません。
 ちなみにこれは、現実生活での状況を再確認するものでもありました。
 また、このようなアプローチ自体が逆に、国際関係において人類的価値の本当の意味をみつめさせました。約束を守る誠実さ、互いを尊敬する心、パートナーシップ、信頼の気持ちは、″新思考外交″の必須要件となったのです。
 私たちは皆、同じ地球で、同じ屋根の下で暮らしている以上、どこの国民であれ、人間社会で築かれてきた共通のルールに従い、攻撃や猜疑心への衝動を抑えなくてはなりません。
 世界はあまりにも狭く、相互のつながり、依存性が高まってきており、もうどんな国家であっても、単独で自国の利益と安全を守ることはできなくなっています。
 こうして世界と人類文明の運命に対する連帯責任、なかんずくソ連、アメリカ両国の責任という点が、徐々にわが国の外交政策のなかで大きくクローズアップされるようになったのです。
 新思考は階級、イデオロギーのみならず、人種、宗教、経済上の世界の分裂を克服する道をわれわれに教えました。その真髄は単純かつ平易なものです。われわれが争い、対立している間に私たちの″家″の″壁″や″土台″にはどんどんひび割れが広がっていく、ということです。
 池田 「単純かつ平易」なるがゆえに、人々は、みずからの足元を掘り崩し、飲みこもうとするようなひび割れにも、往々にして気づこうとしません。
 「地獄への道は善意で舗装されている」とはよくいったもので、近代革命の暴力と流血の側面は、その箴言に対して、最も巨大かつ陰惨な″リトマス試験紙″であったのかもしれません。
 先に政治の現場で、「分断」「対立」が幅を利かせていたという話がありましたが、私は、より根本的に、″悪″の本質は「分断」にあり、逆に″善″の本質は「結合」にあると、つねづね訴えてきました。
 これは、トルストイの哲学にも通ずることですが、″悪″というものは、つねに人間の心を「分断」し、さらに人間同士を、人間と自然とを「分断」し、亀裂を生じさせ、孤立と悲哀の谷間へ追いやろうと待ち構えているものです。
 冷静な、醒めた眼で見れば、この″悪″の本質は明らかですが、人々は、いっこうにそれに気づこうとせず、人類社会から修羅闘諍のかしましい争い声は消え去らない。いわゆる″魔酒″や″悪酒″に酔っているからでしょう。それがイデオロギーの酒であれ、宗教の酒であれ。
 あなたのお話をうかがっていると、ペレストロイカや新思考は、人間が人間であるための「常識への回帰」ではなかったか、という感を強くします。
 ゴルバチョフ おっしゃるとおりです。それは何でもないことなのです。つまり、「常識への回帰」であったのです。しかし、その成果はたいへんなものでした。
 新思考は、わが国の対外関係の構図を共産党のラインでも、国家レベルでも全面的に再編成することを可能にしました。まず、私たちは社会民主主義に和解の手を差しのべました。
 社会主義的発展過程と資本主義との対立が意味をなさなくなった以上、国際労働運動における「革命志向」と「改革志向」の対立は、それ以上に時代錯誤というものです。
 私たちは社会民主派を労働運動の「背教者」とし、自分たちを偉大なる伝統の唯一の「継承者」としてきた従来の見方を、変える必要があることを実感しました。
 それぞれの道に長所、短所がある。誤りもあれば、疑う余地のない成功も業績もあることは、歴史が証明しています。
 こうして、新思考の理論と実践が少しずつできあがっていったのです。

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