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日蓮大聖人・池田大作

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世界を変えた″第一歩″の決断 新思考外交とグラスノスチと

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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7  「イデオロギー」から「リアリズム」ヘ
 ゴルバチョフ もしも軍拡競争を阻上できず、核大国同士の敵意に満ちた対立の深まりを止めることができなければ、全人類の破滅はさけられないことは、ペレストロイカ以前にすでに明らかだったのです。
 世界の政情は、大きな衝突はどのようなものでも核戦争へと発展してしまう可能性があり、そうなれば「社会主義」も「資本主義」も、いかなるイデオロギーも野望も灰と化してしまう危険な淵にありました。このようにすでに「リアリズム」に立脚し、核がもたらす死の前では皆同じであるという理解に到達していましたが、まだ正確な意味において、新しい哲学としての″新思考″が生まれるにはいたっていませんでした。
 池田 「リアリズム」ということは、たいへん重要な視点ですね。″現実″とは庶民の生活感覚のことである、というのが私のいだく現実観です。その一点を忘失してしまえば、政治に限らず一切の物事は、人間に益をなすよりも、害をなす方向へと流されていってしまう。
 いわゆる″職業革命家″といわれる人々がおちいりがちな錯誤もここにあります。四六時中、日常の生活のことを二の次にして、革命という非日常性のなかに没頭していると、どんなに優れた人でも、庶民の生活感覚にうとくなってしまいます。
 その結果、庶民との間にギャップが生じてしまいますが、致命的なつまずきは、彼らがギャップに突き当たってみずからを省みようとせず、ギャップをもっぱら民衆の愚昧ぐまいにこと寄せてしまうことです。
 私たちが話し合ったパステルナークやシャリャービンのボルシェビズム批判は、まさにそれです。
 ゴルバチョフ おっしゃるとおりです。私たちの場合も″新思考″への跳躍の契機となったのは、理論と現実の深まりゆくギャップでした。人々は、社会主義こそ最も進んだ社会体制であると、プロパガンダ(宣伝)によって教えられてきました。
 しかし、その一方で社会主義の経済的、政治的危機がますます深まっていき、社会主義諸国は西側先進諸国からますます後れをとっていきました。これは大局的にもまた細かい点でも、いたるところで見られた現象です。
 それゆえに、私たちは真実の世界を語ることから始め、まず自分自身の目を信じることから始めたのです。突破口が開かれたのは、本来の世界の多元性、多種多様性の根本的な認識からでした。
 池田 宗教の世界でも、事情は同じです。聖職者という専門職業に従事する人間は、額に汗して働く庶民の生活感覚から遊離していくゆえに、一方では、能うかぎり庶民を愚昧にしておいてその上に君臨し、欲望のおもむくままに遊蕩三昧の堕落の坂を転げ落ちていってしまう。洋の東西を問わず、多くの聖職者がたどった道です。
 ガブリエル・マルセルが「プルードンは『知識人らは軽薄だ』といったが、それは悲しいことに、おそろしく真実をうがった言葉である。そこには深い理由があるのであって、知識人は労働者や農夫のように抵抗のある現実と取組むかわりに言葉で働くのであり、紙はすべてを受けつけてくれるからである」(『人間、この問われるもの』小島威彦訳、『マルセル著作集』6所収、春秋社)と述べているのは、けだし至言です。
 「イデオロギー」に決別し「リアリズム」に立ち返ることは、たいへんな勇気と決断を要したことと思います。
 ゴルバチョフ 私たちにとって″新思考″は、疑うべからざる明白な事実を認識することから始まりました。つまり、社会主義と資本主義は人類文明発展の道における異なった選択肢であり、画一化は目的とはならないばかりか、人類文明の終わり、死を意味する。ここですでに″新思考″への跳躍があったのです。
 国際関係の脱イデオロギー化の出発点となったのは、資本主義の道も、人類文明の発展にとって、社会主義と同じ価値を有しており、社会主義と資本主義の発展の基礎には、同じ全人類的価値があるという認識でした。しかし、世界の多種多様性、多元性についての認識は、第一歩にすぎません。二歩目は、第一歩にもとづくものでしたが、世界がもともと相互につながり合い、依存し合っているということの認識でした。
 人類文明のこの二つの道は、ただたんに隣り合わせに存在しているわけではありません。それらは、どこか深い基底部でつながっており、相互に作用し合い、影響し合っているのです。世界の相互連関性という考察は、″新思考″の形成に多大な影響を与えました。
8  「共生」こそ二十一世紀を開くキーワード
 池田 なるほど。そうした発想は、仏教の根本的なものの見方である″縁起観″へとまっすぐに通じており、感銘を受けました。
 仏教では、人間社会の現象であれ自然現象であれ、単独で起こるような物事は何もなく、すべてはりて、関係し合いながら起きてくると説いています。ですから、AとBが存在する場合、AはBあってのA、BはAあってのBというふうに、A、Bという個別性を重視するよりも、AとBとの関係性を重視します。
 もとより、関係性といっても個別性を軽視したり、まして無視するのではなく、関係性という具体的な″場″があってこそ、はじめて個もそれぞれの輝きを放ってくるとする、きわめてダイナミックな考え方です。
 一九九四年、私はモスクフ大学での講演で、「普遍性」とは、人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が、一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚、コスモス感覚であると訴えました。これは、世界はもともと相互につながり合い、依存し合っているという、あなたの認識と強く共鳴し合うものと思います。その意味からも、私は「共生」こそ、二
 十一世紀を開くキーワードであると信じています。
 ゴルバチョフ 仏教の発想とは若干ニュアンスが違うかもしれませんが、世界の相互連関性という思想は、大学の哲学の教科書にもありました。しかし、この思想は決して現実の政治のなかに取り入れられることはありませんでした。
 現実の政治においては、つねに社会主義の絶対性、人々の分断と対立に力点がおかれていました。
 ですから私たちは、最低限のことをまずやりました。つまり、現実政治を公式的な考え方と合致させたのです。それも一つの跳躍でした。
 当時にあっては斬新だった世界観――人類文明の発展には共通の基礎メカニズムが存在するという認識は、国内政策において新たな展望を開き、わが国の新しい進歩の可能性を開きました。
 全人類的価値と素朴なモラルの復権は、人間の精神的発達をうながし、エゴイズムを抑制する既存のメカニズムとして教会の復権をもたらしました。また、経済発展の道として選択された資本主義は、市場、商品=貨幣関係、企業活動、経済の活性化をうながしています。
 これは、中世のカトリシズムと同じように、企業活動、市場文化そのものを精神的、思想的に抑圧した共産主義思想を経た後に訪れた本格的な突破口でした。このような世界観が、新しい視点、国際関係、国際政治の本質に到達するのは必然のことでした。
 池田 ゴルバチョフ外交は、それがハッキリと現れ、世界中から注目されましたね。
9  人間が人間であるための「常識への回帰」
 ゴルバチョフ そうです。こうした世界観にもとづいた対外政策は、わが国が資本主義文明の成果と、人類的問題の解決を探るうえでの経験を、できるかぎり習得できるものでなければなりませんでした。
 たんなる協調行動、共存ではなく、全人類的価値の保存と実現のメカニズムを取り入れていかなくてはなりません。
 ちなみにこれは、現実生活での状況を再確認するものでもありました。
 また、このようなアプローチ自体が逆に、国際関係において人類的価値の本当の意味をみつめさせました。約束を守る誠実さ、互いを尊敬する心、パートナーシップ、信頼の気持ちは、″新思考外交″の必須要件となったのです。
 私たちは皆、同じ地球で、同じ屋根の下で暮らしている以上、どこの国民であれ、人間社会で築かれてきた共通のルールに従い、攻撃や猜疑心への衝動を抑えなくてはなりません。
 世界はあまりにも狭く、相互のつながり、依存性が高まってきており、もうどんな国家であっても、単独で自国の利益と安全を守ることはできなくなっています。
 こうして世界と人類文明の運命に対する連帯責任、なかんずくソ連、アメリカ両国の責任という点が、徐々にわが国の外交政策のなかで大きくクローズアップされるようになったのです。
 新思考は階級、イデオロギーのみならず、人種、宗教、経済上の世界の分裂を克服する道をわれわれに教えました。その真髄は単純かつ平易なものです。われわれが争い、対立している間に私たちの″家″の″壁″や″土台″にはどんどんひび割れが広がっていく、ということです。
 池田 「単純かつ平易」なるがゆえに、人々は、みずからの足元を掘り崩し、飲みこもうとするようなひび割れにも、往々にして気づこうとしません。
 「地獄への道は善意で舗装されている」とはよくいったもので、近代革命の暴力と流血の側面は、その箴言に対して、最も巨大かつ陰惨な″リトマス試験紙″であったのかもしれません。
 先に政治の現場で、「分断」「対立」が幅を利かせていたという話がありましたが、私は、より根本的に、″悪″の本質は「分断」にあり、逆に″善″の本質は「結合」にあると、つねづね訴えてきました。
 これは、トルストイの哲学にも通ずることですが、″悪″というものは、つねに人間の心を「分断」し、さらに人間同士を、人間と自然とを「分断」し、亀裂を生じさせ、孤立と悲哀の谷間へ追いやろうと待ち構えているものです。
 冷静な、醒めた眼で見れば、この″悪″の本質は明らかですが、人々は、いっこうにそれに気づこうとせず、人類社会から修羅闘諍のかしましい争い声は消え去らない。いわゆる″魔酒″や″悪酒″に酔っているからでしょう。それがイデオロギーの酒であれ、宗教の酒であれ。
 あなたのお話をうかがっていると、ペレストロイカや新思考は、人間が人間であるための「常識への回帰」ではなかったか、という感を強くします。
 ゴルバチョフ おっしゃるとおりです。それは何でもないことなのです。つまり、「常識への回帰」であったのです。しかし、その成果はたいへんなものでした。
 新思考は、わが国の対外関係の構図を共産党のラインでも、国家レベルでも全面的に再編成することを可能にしました。まず、私たちは社会民主主義に和解の手を差しのべました。
 社会主義的発展過程と資本主義との対立が意味をなさなくなった以上、国際労働運動における「革命志向」と「改革志向」の対立は、それ以上に時代錯誤というものです。
 私たちは社会民主派を労働運動の「背教者」とし、自分たちを偉大なる伝統の唯一の「継承者」としてきた従来の見方を、変える必要があることを実感しました。
 それぞれの道に長所、短所がある。誤りもあれば、疑う余地のない成功も業績もあることは、歴史が証明しています。
 こうして、新思考の理論と実践が少しずつできあがっていったのです。

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