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日蓮大聖人・池田大作

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創立七十五周年記念幹部代表者会議 「対話」が人間を結ぶ世界を変える

2005.10.22 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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18  巴金先生との忘れ得ぬ語らい
 去る十月十七日の夜、私が深く敬愛する、現代中国を代表する世界的文豪・巴金ぱきん先生が逝去された。享年百歳であられた。
 私も、これまで、四度にわたって忘れ得ぬ出会いと語らいの歴史を刻ませていただいた。
 (初の出会いは、一九八〇年四月五日、静岡研修道場で。二度目は同年四月二十八日、上海・錦江飯店で。三度目は八四年五月十一日、来日中の都内の宿舎で。そして最後の語らいは、同年六月十日、上海の巴金氏の自宅で)
 人民の友好を深く願われていた巴金先生に思いを馳せながら、すぐに弔電を送り、深く追善させていただいた。
 上海のご自宅にお招きいただいたさいは、辞去する私を、わざわざ先生は、外まで見送りに立ってくださった。お体に障ると思い、途中、何度も「もう、ここまでで結構ですから」と申し上げた。しかし、一歩また一歩と杖をつかれながら、門を越え、石段を降りた道路まで歩みを運んでくださった。
 私が車に乗ってからも、ご家族と一緒に、微笑まれながら、いつまでも手を振ってくださった。あの光景は、今も私の生命の底に焼きついて離れない。
 「文化大革命」の十年間、巴金先生に向けられた嘘や言いがかり、デマによる迫害は、筆舌に尽くしがたいものであった。
 十四巻の『巴金文集』など、すべての作品が「邪書」「大毒草」とされた。「妖怪変化」と呼ばれ、何度も大勢の前で台上に引きずり出され、頭を垂れて罪を認めさせられた。
 三十余年もの長いつき合いだった友人から裏切られ、まったくの嘘八百をでっち上げられたこともあった。家族も糾弾の対象とされた。唯一の心の支えであった夫人は辛労のすえに病に倒れ、「毒草の妻」だからと満足な治療も受けられないまま、亡くなられた――。
 巴金先生との三度目の語らいの折、私は率直にうかがった。
 文化大革命という不幸な嵐の中で、何を強靭な意志に変えて生きぬいてこられたのか――と。
 巴金先生は言われた。
 「『信ずること』。つねに理想を求めていくということです。真理はつねに悪に勝つということを信じています」
 さらに巴金先生は、きっぱりと言われた。
 「いろいろ苦しいことはあったが、そのなかで考えた唯一のことは″戦って、戦って、戦いぬいて生きていく″ということでしたした」
 そのとおりに、先生は戦いぬかれ、そして勝ちぬかれた。
 二年前(二〇〇三年)の十一月、数え年で百歳となられた佳節には、中国政府から、巴金先生に「人民作家」の称号が贈られた。最高の誉れの名称である。
 私は創価の「ペンの闘士」の皆さんに、巴金先生の言葉を贈りたい。
 「自分の力を過小評価してはなりません。われわれの手に握られたぺンは、一つの力を生みだすことができるのです」
 「ぺンを武器にして、真理を顕示し、邪悪を糾弾し、暗黒勢力に打撃をあたえ、正義を主張する力を結集させることができるのです」(「核状況下における文学」、「世界」一九八四年八月号所収、岩波書店)
 これは、東京で開催された世界の作家の代表による国際大会での、巴金先生の講演である。
 ペンを武器に最後の最後まで戦いぬいた巴金先生のごとく、わが創価の「ぺンの闘士」たちよ、正義のために書いて書いて書きまくってくれたまえ! と申し上げたい。
19  法華経の兵法に勝るものなし!
 弘安二年(一二七九年)の十月二十三日、大聖人が、強敵と戦いぬいてきた四条金吾に与えられた御聖訓をともどもに拝したい。別名「法華経兵法事」「剣形書」と呼ばれる有名な御書である。
 「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 必死の祈りは、諸天をも動かす。あらゆる障魔を打ち破っていける。「法華経の兵法」に勝るものはないのである。全同志が、ますます厳然と諸天に守護され、ご健康で、ご長寿で、ご多幸であられるように、私はさらにさらに祈ってまいります。
 結びに、敬愛する全同志に和歌を贈りたい。
  創立の
    記念日祝さむ
      天高く
    君よ振れ振れ
      勝利の旗をば
 栄光の創立七十五周年を総仕上げして、全国各地で奮闘されている″創価家族″の皆さまに、くれぐれもよろしく、お伝えください。
 いつも本当にありがとう!
 (東京・新宿区内)

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