Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI代表協議会 皆を幸福にするのが指導者

2002.11.15 スピーチ(2002.8〜)(池田大作全集第94巻)

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10  信仰は一切の勝利の源泉
 日蓮大聖人は、権力による民衆弾圧事件であった熱原法難の余儘がくすぶるなか、若き青年門下の南条時光に言われた。(弘安三年七月)
 「世の中は、上の人でも下の人でも、嘆き悲しむことが多いものである」(御書1565㌻、通解)
 世間を見れば、戦争の危機が迫っていた(翌年、第二次の蒙古襲来)。人々は不安にかられ、国内は、あげて物情騒然たる状態であった。
 そのなかにあって、大聖人は悠然として断言された。
 「われらは法華経を信じているから、浅い淵にすんでいる魚が、天が曇って雨が降ろうとするのを喜ぶようなものである」(同㌻、通解)
 今は難を受けて苦しんでいても、正しい信仰によって、必ず乗り越えていけると励ましておられるのである。
 信仰は一切の勝利の源泉である。
 水たまりのように浅い淵にすんでいる魚は、いつ水が枯れてしまうか、不安で不安で仕方がない。いな、そういう危険と隣り合わせであることも知らず、とりあえず、今を生きられればいいと思っているかもしれない。多くの場合、人間も同じである。
 御本尊を持ち、信心に巡り合えたことは、水が枯れて死ぬかもしれない不安のところへ、まさに天の恵みの雨が降らんとするのを魚が喜ぶようなものなのである。
 「しばらくの間、苦しいことがあっても、ついには、楽しくなるのである」(同㌻、通解)
 皆さまの人生の旅の途上に、いかなる苦しみ、悩みがあろうとも、それを全部、最後は「楽しみ」に変えていける。この極意が信心なのである。
 また、これは、社会にあふれるさまざまな問題に目をつぶり、人々の苦悩から遊離して、自分たちだけが幸福になるという利己主義的な生き方を教えているのではない。いかなる社会的な試練、外的な不幸の嵐が襲ってきても微動だにしない、金剛不壊なる自分自身を確立していくのが信心だということだ。
 「我が此の土は安穏」(寿量品、法華経四九一㌻)と説かれる仏の大境涯である。
 そして信心のリーダーは、自分の地域の友を、自分の国の同志を、民衆を、何があろうとも、断じて幸福にしていくのだと強い決心で立ち上がっていくことだ。
 広宣流布こそ平和の大道である。
11  友情の光彩を未来ヘ
 フランスの思想家ルソーは言った。
 「わたしはたえず原則にたちかえる。それはわたしのあらゆる困難にたいする解答を提供してくれる」(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫)
 まったく、そのとおりだ。われわれには、信心という永遠の原点がある。
 本来、信心を貫く人生に行き詰まりはない。妙法に行き詰まりがないからだ。信仰とは、無限の希望であるからだ。
 しかし、揺れ動く人間の心のほうが、みずから行き詰まりをつくってしまう。「もう、だめだ」「もう、このへんでいい」と。その胸中の行き詰まりとの戦いそのものが、信仰ともいえる。
 大聖人は、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。
 惰性、停滞、あきらめ、油断、そうした「たゆむ心」「弱い心」と戦い、「つよる心」「強い心」を奮い起こしていくところに、勝利の人生がある。
 そのためにも、リーダーの皆さまは、「行き詰まったら原点に帰れ」という一点を絶対に忘れてはならない。
12  きょう(十五日)、お隣の中国で、若々しき国家のリーダーが誕生した。今回、江沢民こうたくみん氏の後を継がれた胡錦濤こきんとう総書記である。五十九歳の清新な指導者である。
 江沢民前総書記とは、私は中国と日本で四度お会いした。
 胡錦濤総書記とは、中国の青年代表団の団長として来日された一九八五年の二月六日に、初めてお会いした。当時、四十二歳であられた。
 私は東京を離れて、近県の地方の指導に赴いていたが、中国の二十一世紀を担う青年リーダーの来訪をうかがい、急遠、東京に戻ってお会いしたのである。
 そのことを、胡総書記もよく覚えていてくださり、国家副主席になられた後、一九九八年の四月二十二日に再会した折にも、鮮明な思い出として語ってくださった。
 ともあれ、私は、「真剣」と「誠実」で、世界に友情を広げてきた。平和への光は、それしかない。
 どうか皆さま方も、それぞれの地域、それぞれの国で、偉大なる友情の光彩を未来へ広げていただきたい。
 (東京・信濃文化センター)

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