Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国総県長会議 「勇気の声」を「勝利の劇」を

2001.2.28 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

前後
9  仏教についてもふれておきたい。
 釈尊は、「九横の大難」を受けた。自分の一族が波瑠璃王によって攻め滅ぼされ、「御身したしき人数百人切りころす」惨劇があった。一切の外道から「大悪人」と罵られた。弟子の提婆達多に裏切られ、殺されかけた。デマの醜聞を流され、悪口を投げつけられた。
 釈尊滅後の弟子も、師子尊者は正法のゆえに首をはねられた。
 天台大師も、当時、勢力を誇った「南三北七」の十派にうらまれ、悪口中傷された。坊主たちがカラスのように群れをなして悪口を言い、罵り騒いだという。
 伝教大師も、南都六宗から憎まれ、悪口雑言をあびせられた。
 日蓮大聖人が命に及ぶ大難を厳然と乗り越えられたことは言うまでもない。門下も讒言のために囚われ、追放され、殺された。熱原の法難では、農民信徒二十人が不当に逮捕され、拷問され、神四郎・弥五郎・弥六郎が斬首された。
 そして創価学会は、軍国主義と戦い、戸田先生は投獄、牧口先生は獄死した。
10  これらは、ごく一例にすぎない。無数の人々が信仰ゆえに迫害された。その歴史的事実を、ゆめゆめ忘れてはならない。
 これらに比べれば、われわれの受ける非難、中傷など微々たるものである。小さな波のようなものだ。ゆえに、いかなる迫害も恐れてはならない。断じて打ち破っていくことだ。
 もちろん、殉教といっても、尊極な生命を粗末にすることは絶対にいけない。時間を惜しんで、どこまでも「広宣流布のために」戦いぬくことが、殉教に通じていくのである。
 何が正義か。何が邪悪か。それを峻別する目をもたねばならない。
 フランスの思想家ルソーは言う。
 「真に寛容な人間はけっして犯罪を許しはしません。彼は人間を邪悪にするいかなる教義も許しはしません」(「山からの手紙」川合清隆訳、『ルソー全集』8所収、白水社)
 アメリカの民主主義の父ジェファソンは呼びかけた。
 「もし、きみが人民を啓蒙するならば、かれらの心身をくるしめている圧迫は、あかつきの悪魔のごとく退散するであろう」(S・K・パドーバー『トマス・ジェファソンの思想』ミヤザキ・ヒロシ訳、民主教育協会)
11  青年よ、広宣の全責任を担い立て
 忘れ得ぬ三・一六「広宣流布記念の日」。その日を前に、戸田先生は青年につづり残された。
 「どうしたならば、混乱せる世界の政治情勢、経済情勢に平和を与えることができ、日本民衆も、自他ともに安定した世界を創造できるかと、揣摩探査(=思索し探求)するときに、自然に中年層も、老年層も、これ(=青年)に追随して、りっぱな代議士を選出できるのである」(『戸田城聖全集』第一巻)
 「とまれ、青年は心して政治を監視せよ」(同前)
 これは、戸田先生の遺言である。私は、そのまま、青年部に贈りたい。若き哲人が正義を叫ばなければ、日本の未来の希望は開けないからである。
 青年部の世紀である。広宣流布の全責任を担い立ち、死にもの狂いで、自分自身の勝利の金字塔を打ち立ててもらいたい。
 今がチャンスである。何でもいい、何かで歴史をつくることだ。やれば自分が得をする。やらないで損するのも自分である。諸君の戦いを、だれが見ていなくとも、御本尊が御照覧である。私は見守っている。
 今の十倍、いな百倍の勢いで、頭脳を回転させ、猛然と動き、正義を語りぬいていくことだ。あえて苦労を求め、みずからを鍛え、速度を増して成長していってほしい。それ以外にない。諸君の成長いかんで、学会の命運が決まるからである。
 ヘレン・ケラーは言っている。
 「私たちは、私たちの力に相応した仕事を与えてください、ということを祈るのではなくして、私たちの仕事に相応し、大望心に燃え、はるかな目的に向かって、おおしく進みうる力を与えてください、ということを祈るのでなければなりません」(『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川文庫)
 本年上半期の大勝利を誓いあい、朗らかに、楽しく戦って、またふたたび、お会いしましょう。
 (創価文化会館)

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