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日蓮大聖人・池田大作

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日米各部協議会 「虚飾の権力者」より「正義の庶民」が尊い

1998.10.24 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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7  あの五老僧も、大聖人が生きておられる間は、まだ良かった。しかし、厳しい師匠の目が無くなったとたんに、だめになった。偉大な大聖人が亡くなられて、敵たちは、ここぞとばかりに弾圧を始めた。
 その時に、五老僧は一致団結して迫害と戦うどころか、「天台沙門」(天台宗の僧侶)と名乗って迫害を避けた。当時の権威であった天台宗の″権威の屋根″のなかに逃げ込んだのである。
 そうやって、身は守ったが、大聖人の正義を地に落としてしまった。
 釈尊が亡くなった時も、「やっとこれで、われわれは好きなことができるぞ!」と叫んだ老僧がいたと伝えられている。
 師匠が見ている時は、だれでも頑張る。師匠の目から離れた時にこそ、どう振る舞うか。そこに″本物″と″にせもの″の違いが出る。師匠が見ていようがいまいが、自分自身の信念で、師匠の恩を報じきっていくのが、本当の弟子である。心が師匠と″分離″しては、おしまいである。何をしても空転であり、何の価値も生まない。結局、わがままになり、堕ちていってしまう。
 ともあれ、大聖人門下であれば、「民が子なり」「旃陀羅が子なり」と叫ばれた大聖人の御精神を貫き通すべきである。わが身を飾って笑われた「カラス」のような、また、どっちつかずの「コウモリ」のような姿に堕ちてはならない。自己自身に生きればよいのである。
 我らは永遠に、晴れ晴れと「民衆党」で、いきましょう!
8  創価の文化運動を世界が称賛
 各地で青年部が、文化祭・音楽祭を行っている。その健闘をたたえつつ、一言、紹介させていただきたい。
 かつて、中国の方々が周総理の指示を受けて、創価学会のことを研究していた。
 その方々が、学会への認識を深められたのは、甲子園球場での、あの″雨の文化祭″(一九六六年九月、四万一千人の若人が雨中で感動の演技を披露した)の記録フィルムが、一つのきっかけであったという。
 周総理と私の会見で通訳を務めてくださった林麗韞りんれいうん先生(現、全国婦女連合副主席)は、「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当に素晴らしいと思ったのです。と同時に、創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」と証言しておられる。
 また、先月(一九九八年九月)、マレーシアで、七十カ国・地域から参加して行われた「第十六回共和連邦競技大会」。開会式では、わがマレーシア創価学会の五千人の青年たちが、見事な「人文字」を披露して、場内を魅了した。その模様は、全世界に衛星中継され、五億人が観賞したという。各国からの来賓、マレーシア政府首脳からも、感動と感謝の言葉が寄せられた。
 さらに、イギリスのバッキンガム宮殿からは、エドワード王子の感謝の思いがしたためられた礼状が、マレーシアの理事長のもとに届いた。乱世の暗き世紀末にあって、わが創価の大文化運動こそ、新世紀への大いなる″希望の太陽″なのである。
9  荘厳な夕日のごとく人生の総仕上げを飾れ
 人生は、総仕上げで決まる。有名な御聖訓であるが、大聖人は、こう仰せである。
 「世の中ものからん時も今生の苦さへかなしし、いわんや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道をさかへり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず
 ――世の中が、つらく感じられる時も、″今世の苦しみでさえ、これほど悲しい。来世に(地獄に堕ちたら)その苦しみは、それ以上である″と思って南無妙法蓮華経と唱えなさい。
 また喜びの時も、″今世の喜びは、夢の中の夢である。霊山浄土の喜びこそ、まことの喜びである″と思い合わせて、また南無妙法蓮華経と唱えなさい。そして退転することなく修行して、最後の臨終の時を待って、ごらんなさい。
 妙覚の山(最高の悟りの境涯)に走り登り、目を見開いて四方を見るならば、ああ、なんと、おもしろいことか。世界は寂光土であり、瑠璃をもって地面とし、黄金の縄で、八つの道の境界をつくっている。空からは四種の花が降ってきて、天空には音楽が聞こえてくる。諸仏・菩薩は、常楽我浄という、(不滅・自在にして清らかな境地の)風に吹かれて、心から楽しんでおられる。
 我らも、その中に連なって、遊戯し、楽しむべきことは、もう間近である。信心が弱くては、このような素晴らしい所へは行くことはできないのである。行くことはできないのである――。
 真っ赤な夕日が、錦秋の紅葉の山々を荘厳に照らしていくように、広宣流布へ全生命を燃焼させながら、神々しい人生の総仕上げを、私とともに飾っていただきたい。
 美しい夕焼けの翌日が晴天となるように、仏勅の学会とともに生き抜いた人生は、生々世々に、晴れ晴れと、健康で、裕福で、″大勝利の人生″と輝きわたっていくのである。
 皆さま方の、ますますのご多幸とご長寿を心から祈って、私のスピーチとしたい。
 (東京・新宿区内)

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