Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九十七回本部幹部会、芸術部総会、女子… 楽しき広布の大遠征

1996.2.24 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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23  迫害こそ「正義」を雄弁に証明
 ここで御書の一節を拝したい。
 御書という明鏡に照らしてみれば、すべて、その本質は明らかになる。ゆえに、教学という智剣ちけん(智慧の剣)を磨くことである。
 日蓮大聖人は佐渡に流罪になる途中、寺泊てらどまりの地(現在の新潟県・寺泊町)で門下に御手紙(「寺泊御書」)を書かれた。厳しき寒さの季節(旧暦の十月末)であった。
 当時、大聖人御一人をめがけ、一国をあげて、狂気のごとき迫害を加えていた。大聖人に対する悪口や誹謗が渦巻いていた。
 そうした状況のなか、大聖人は厳然と、こう言い放たれたのである。
 「卞和べんかは足を切られ清丸は穢丸けがれまると云う名を給うて死罪に及ばんと欲す・時の人之を咲う、然りと雖も其の人未だ善き名を流さず汝等が邪難も亦爾る可し
 ──中国の卞和べんかは(国のために貢献しようとしたにもかかわらず、それが認められず)足を切られ、日本の和気清丸わけのきよまろは(野心の悪僧と戦ったため)穢丸けがれまろという悪名をつけられたうえ、死罪にされようとした。その当時の人々は、その姿を見て卞和や清丸のことを笑った。しかし、(笑われた卞和や清丸はよき名を残したが)笑ったほうの人はよき名を残していない。(私に対する)あなたたちのよこしまな非難もまた同じことであろう──。
 大聖人を悪意で非難している人間たちは、結局、後世に悪名を残すだけである、と。事実、歴史はそれを証明している。
24  「勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、「及び刀杖を加うる者」等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる「常に大衆の中に在つて我等が過を毀らんと欲す」等云云、「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、「悪口して顰蹙ひんしゅくし数数擯出せられん」数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり
 ──法華経の勧持品には「諸の無智な人々が悪口を言い、罵る」とある。日蓮は、この経文の通りになっている。あなたたち(よこしまな非難をする者たち)は、なぜ、この経文の通りになっていないのか。また「刀や杖で暴力を加える者がいる」と。日蓮はこの経文を身で読んだのである。あなたたちは、なぜ、この経文を身で読まないのか。また「(悪侶らが)常に大衆の中で我ら(法華経の行者)を謗ろうとする」「国王、大臣、聖職者、社会的有力者に向かって(法華経の行者を誹謗する)」「悪口を言い、顔をしかめ(て迫害し)、(そのため法華経の行者は)しばしば追放される」などとある。「しばしば」とは、「たびたび」ということである。日蓮は何度も追放され、流罪は二度である──。
 ″法華経の行者は幾多の難にあうと、経典に、はっきり書いてあるではないか。私は、その通りの難を受けているのだから、正しいということではないか。非難する人間たちは、経文の通りになっていないではないか″──大聖人の厳しき御言葉である。
25  今、広宣流布のために、現実に大難にあい、御書を身読しているのは、我が創価学会だけである。
 創価学会だけが、法華経の通り、御書に仰せの通りの、誉れの大道を進んでいる。これこそ学会が、仏勅の団体である証なのである。
 かつて悪口を言われ、笑われた牧口先生、戸田先生の名は、今や世界に燦然と輝きわたっている。反対に、牧口先生、戸田先生を誹謗し、笑った人間たちは、その悪行だけが歴史に刻まれている。
 御書に示されている通りである。歴史の審判は厳しい。何より、仏法の因果律は、あまりにも厳粛である。このことを忘れないでいただきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただきたい。
 長時間、ありがとう。日本全国の皆さま、本当にご苦労さま。皆、仲良く、朗らかに進んでいきましょう!

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