Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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日本・ブラジル合同研修会 「民衆が主人」の社会への逆転作業

1995.8.8 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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16  民衆よ、あなたが主人なのだ
 問題は、この〈主人─奴隷〉意識が、対外的だけでなく、国内的にも貫いている日本社会の後進性である。つまり、「国家が主人、民衆が奴隷」「官が上、民が下」という封建的意識が根強く残っている。
 「主権在民」なのだから、「民衆が主人、国家は手段」「官は、民衆に奉仕する公僕」のはずである。しかし、あいかわらず、権力については「お上」の意識である。この上下意識を壊さないと、どうなるか。
 政治家等になると民衆の「上に立った」気になるであろう。「もと奴隷」が「主人の側」に立ったという意識のままに、好き勝手に、民衆を利用し、民衆を働かせ、民衆を貪り、民衆をだまし、裏切り、民衆を踏みにじるかもしれない。
 ゆえに、この意識を壊さない限り、どんなに政治活動をしても、根本的には不毛ではないだろうか。「古い主人」の代わりに「新しい主人」をつくって、同じ苦しみの歴史を繰り返すだけではないだろうか。
 私どもの広宣流布運動とは、こういう魔性の〈主人─奴隷〉意識を叩き壊す運動であり、文化の土壌そのものを変える人間革命運動である。
 しかし、古い〈主人─奴隷〉意識をもったままの人々は、その古い図式に当てはめて、創価学会が何らかの野望をもち、「新たな主人」になろうとしているかのごとく宣伝するかもしれない。
 とんでもない誤りであり、私どもは、こういう古い権力意識そのものを変えたいのである。民衆の涙と忍従の歴史を断じて変えたいだけなのである。ゆえに民衆が団結し、民衆が自立して行動しているのである。
 ──この種の誤解、曲解は、「道義の問題」であった日中問題を「利害の問題」としてしか考えられなかった誤りと、根が一つである。
 また、「人間次元の問題」を権力構造すなわち〈主人─奴隷〉関係でしかとらえられない貧しさは、かつて日本の軍国主義がアジアの民衆を人間あつかいしなかった残虐と、同根なのである。
 要するに「人間」が見えない。「精神」がない。「心」がわからない。
17  戸田先生が「心して政治を監視せよ」と訴えたのも、民衆が〈主人〉として、政治家という〈使用人〉がちゃんと働いているかどうか監督せよ、目を離して悪いことをさせてはならないという意味であった。
 ローマの雄弁家・大カトー(紀元前二三四年〜同一四九年)いわく「あらゆる専制君主は人間を食う」。この権力の魔性を抑える戦いである。
 そのために民衆を賢明にする戦いである。「人民を奴隷化するものは王侯・貴族ではなく、また地主・資本家でもない。人民を奴隷化するものは人民自身の無知である」(ヘンリー・ジョージ)という言葉もある。
18  「民衆本意の社会」こそ「世界市民の集い」
 「新しい人間」をつくる私どもの運動は、政治だけでなく、文化、社会の全般にわたる。一切の根底にある「精神の大地」を耕す運動である。
 「民衆本位」の社会。「人間本位」の文化。それこそ日蓮大聖人が志向された「新しい世界」である。
 「戦後五十年」といっても、「近代百二十七年」の歴史の中で考えなければ本質はわからない。近代の出発から、また、それ以前から引きずっている〈主人─奴隷〉関係のゆがみをただすことこそ、日本の課題であり、そこに私どもの民衆運動の重大な意義がある。
 国際連盟の提唱者、アメリカのウィルソン大統領は言った。
 「民族は上からではなく、下から更新される。無名の人たちのなかから出現する天才こそ、民衆の若さと精力を蘇生させる天才である」(「新しき自由」)
 皆さまこそ、社会を土台から改革している真の変革者であられる。
 「民衆本位の日本」。それこそ、世界の民衆と平等にスクラムを組める「世界市民の集い」の社会である。その建設者、先駆者の皆さまに敬意を表し、本日の研修としたい。

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