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日蓮大聖人・池田大作

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関西広布功労者の第1回懇親会 「励まし」が人を変える、自分を変える

1993.11.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

前後
8  主人公のお母さんの名前は菊池うたさん。町医者の妻であり、六人の子供の母であった。
 明治三十八年(一九〇五年)、夫が信州(長野)から中国大陸へ、医者としての新天地を求めて単身、旅立つ。彼女は、しゅうとや子供たちとともに残された。
 当時、三十代なかば。この本は、そのころの彼女の日記を中心に描かれている。
 彼女は、常に「太陽のように明るい人」であった。
 もちろん、夫と離れ、一人で家族を支えていくのは、大変なことだった。
 また、目や肩が悪く、手のしびれなどの持病もかかえていた。
 彼女は日記に、こう書いている。
 「誰とても家計の相談する人なく、ただ心中にて苦痛。さりとて子供等に少しの心痛をさとらせざる様に務む」
 彼女は強かった。だれにも頼らなかった。だから愚痴をこぼさなかった。人を頼るから愚痴が出る。
 子供たちは、のちに日記を見て初めて、お母さんにも悩みがあったことを知ったという。
 また、彼女は、「ありがたがり屋さん」と言われるほど、ささいなことにも感謝の心を忘れなかった。
 感謝の人は美しい。心にダイヤをもつ人は、他の人にもダイヤを見つける。
 筆者は、お母さんを振り返って、語っている。
 「太陽のような母を持つ子供にとっては、世の如何なる出来事も、その子供の将来に暗い蔭を与え得るものではない」
 婦人部の皆さまは、どんなにつらいときでもニッコリほほえんで、家庭に地域に、安らぎの光を送っておられる。″学会の太陽″婦人部の皆さまに心から敬意を表したい。
9  彼女は「賢き教育の人」でもあった。″口ではなく行動をもって教える″という教育方針で、みずから率先して学び、動き、働いて、六人の子供たちを立派に育て上げた。
 筆者は幼いころ、言葉を覚えるのが遅く、父親から、見込みがないと思われていた。
 しかし、お母さんは、「この子は、ただ少し知恵のまわりが遅いだけです」と、温かく見守り、自信を与えてくれた。その母のおかげで、著者は、やがて小学校で最優秀の成績を収めるようになったという。
 両親が、そろって子供を責めてはいけない。それでは子供は行き場がなくなってしまう。委縮してしまう。出せる力も出せなくなってしまう。何の価値もない。
 このお母さんは、「周りの人を大切にする人」であった。
 友人の幸福を祈り、友のいいニュースを聞くと、自分のことのように喜んだという。また、困ったことがあれば、親身になって相談にのってあげた。
 学会の婦人部の皆さまをほうふつさせる姿である。
10  家計は決して楽ではなかった。しかし、家を貸してあげた人が、貧しさのなか、やっと家賃を払いにくると、彼女は、受領書の中に、そっとお金をしのばせて渡してあげることもあった。
 また、近所の恵まれない子供たちに、服を作ってプレゼントしてあげたりもした。そうした彼女の心が多くの人を引きつけ、家庭は人の出入りで、いつもにぎやかだったという。
 ささやかな真心であったかもしれない。しかし、自分の生活も大変ななか、人に尽くすお母さんの美しい姿は、子供たちの心に焼きついた。
 子供にとって、「母は最初の教師」という。婦人部の皆さまは、人一倍、多忙である。「人のために」行動しておられる。その母の「心」が、子供たちに通じたならば、それは一生を支える宝となるにちがいない。母の「心」が伝わったならば、それは一生を導く光となるにちがいない。
 全関西の皆さまの「素晴らしき人生」を心からお祈りし、スピーチとしたい。お会いできなかった方に、くれぐれもよろしくお伝えしていただきたい。

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