Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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カナダSGIのモントリオール総会 「聡明」即「幸福」の人生

1993.9.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  人生は、思うようにいかない場合が多い。どうして、こんな人と結婚しちゃったのかな。どうして、こんな両親のもとに生まれてきたのかな。どうして、こんな、できの悪い子供が生まれたのかな。どうして、こんな会社に入ってしまったのかな──。
 そうしたすべての悩みを、「煩悩即菩提」の法理で、全部、幸福に変えていく、喜びに変えていく。それが「信心」の力である。
 「信心」とは「以信代慧いしんだいえ(信を以って慧に代う)」と説かれるように、最高の「知恵」の働きをする。信心が強ければ強いほど、豊かな知恵の振る舞いになっていく。それが本当の信仰者である。
 ″いつも拝んではいるが、愚かなことばかりやっている″──これでは正しい信仰とはいえない。幸福への知恵が出なければならない。どうすれば一番幸福になれるか、それを自分自身でわかってくるのが、信心の力である。
 知識と知恵は違う。知識があるから幸福とは限らない。一流大学を出ても、不幸な人は、いくらでもいる。
 知恵とは、生活の上で、人生の上で、事実の上で、「幸福」へと自分を導き、一家を導き、人々を導いていく力である。
 この「知恵」の源泉が「信心」なのである。
3  すべてを楽しみ、すべてを幸福に変える大境涯
 幸福といっても、大きい家に住むのが幸福とは限らない。相続税が大変な国もあるし、強盗の心配もある。第一、掃除が大変である。
 「私のうちは小さいけど、すぐに掃除が終わっていいわ」、「あの庭は広くて素晴らしいけれども、風の日には落ち葉で大変でしょう」。
 「強盗にねらわれる心配もないし、やっぱり我が家がちょうどいいわ」。たとえば、こう、とらえていけば楽しい。これも知恵である。
 お金があって、美食しすぎて病気に苦しむ人もいる。幸福は財産で決まるのではなく、知恵で決まる。
 もちろん、私は皆さまに裕福になっていただきたい。そのことをいつも祈っている。
 そのうえで、今はお金がなくても、そのほうがいい場合もある。早くから、苦労しないでお金を持つと堕落してしまう。心が腐敗し、人のために献身することができなくなってしまう。また傲慢になり、濁ってしまう。そうなる場合が多い。
 それよりは、清らかな水がほとばしるような信心と人生を生きたほうが、どんなによいかわからない。
 いやな幹部がいても、「今世は、いばらせてあげよう」、「私は福運を積んで、来世は大統領になるからいい」。そのように大きく包容してあげて、楽しく、朗らかに生きたほうが得である。
 幹部の執拗な追及も、時には、うまくかわしながら、悠々と、自分自身の信心即生活、生活即信心をエンジョイしていける人が賢者である。
4  何があっても、楽しめる境涯。価値的な、ものの見方と知恵。すべての悩みを打開していける力。それは「自分自身を磨く」ことで開かれる。
 それが「人間革命」である。それが「一念三千」の実践である。我が一念、我が境涯を変えることで、一切を幸福へ、幸福へと変えていけるのである。
 カナダの皆さまは、どうか、だれよりも「聡明な人生」即「幸福な人生」となっていただきたい。
5  「自身の生命を大切に」──健康、無事故、長寿の喜び
 第二に、「生命を大切に」していただきたい。「健康」で「無事故」で「長生き」をしていただきたい。
 そのためにも、賢明な信心即生活が必要となる。信心しているからといって、「私は病気にはならない」「死にもしない」、そんなことはありえない。信心しているからといって油断するのは慢心であるし、聡明とはいえない。
 むしろ他の人以上に、仕事や家事、活動と忙しく働いているのだから、疲れて当然である。一生懸命の人ほど、疲れも大きいであろう。
 ゆえに自分自身で注意し、自分自身で工夫して、健康を守り、より健康の方向へ、より健康の方向へと、心身をコントロールしていくことである。
 疲れたら休む。具合が悪ければ、すぐに病院へ行く。当然の道理である。病気を治すのは医学の使命であり、信心はその医学を使いこなしていく、根本の生命力を強めるのである。
 また、いつも申し上げているように、勤行も、心身ともに健康で、すがすがしく生き抜いていくための修行である。その勤行で疲れを増していたのでは何のための実践かわからない。信心はあくまで強く、そのうえで、自分自身で賢明な価値判断をすることである。方便品、自我偈だけでも、唱題だけでも、大功徳があることは間違いない。
6  交通事故は、自分も悲劇である。周りも悲しむ。だれも得をしない。疲れをためず、また無理をしないことである。そして「絶対無事故」を祈りきり、「絶対無事故」を一生涯、貫いていきたい。また自殺について、仏法では人間の生命を「法器」とする。法の器である。自殺はこの尊い法器を壊すことであり、その罪は大きな苦悩となって死後も続いていく。
 ともかく「生命を大切に」。これが仏法者の根本規範である。
7  人生を、生きて生きて生き抜くことである。それが大聖人の仏法である。
 そのために、絶対に「負けない」ことである。自分も、一家も、組織も、何ものにも負けず、何ものをも乗り越え、前へ前へと進んでいく。その姿自体が勝利である。
 木も、風雪に耐え、ぐんぐん伸びて大樹となる。花たちも冬を耐えて、春を迎える。そこに宇宙の本然の律動がある。いわんや、正義の人は負けてはならない。妙法の一家は負けてはならない。
 我が「生命」即「使命」に、どこまでも生きて生き抜いていく。それが信心である。それが南無妙法蓮華経にのっとった人生なのである。
8  自身が「宝塔」、胸中には全宇宙の宝
 要は、広宣流布に生き抜いて「南無妙法蓮華経」と唱える自分自身が「宝塔」である。仏身──仏の生命となる。
 仏の身には、「全宇宙の宝」が納まっている。小さな宝石など問題にならない。結婚二十周年に宝石を買ってくれた、くれないなどと、けんかすることも必要ない。
 「一念三千」であるがゆえに、信心の一念によって、そうした宝から必要な分だけ、自由自在に引き出せる。
 そういう「自由自在」の人生が生々世々、続いていく。これが妙法を唱え、妙法に生き切った人の大歓喜の軌道である。その「永遠の幸福」を築くための今世なのである。
 信心しきった人が不幸になることは断じてない。もし、そんなことがあれば大聖人はうそつきになってしまう。そんなことは絶対にない。信心しきった人は、一人残らず幸福になる。これが大聖人の御約束である。
9  「勇気に生きる」ことである。悠々たる題目を根本に、「行動に生きる」ことである。
 「妙法蓮華経」の「経」も、五体でいえば足に相当する。
 「人のため」「法のため」「社会のため」「広布のため」に動いていく。それは結局、自分自身のためなのである。
 行動した分だけ、自身の生命が磨かれる。そして、あたかも磁石のように、功徳を引き寄せる自分となる。題目をあげ抜いた人は、自然のうちに、そのような「福徳のあつまり」になっていく。
10  仏法は宇宙大である。仏法は永遠の法である。
 先日(九月十九日)、(ロサンゼルス郊外の)ウィルソン山天文台所長のジャストロウ博士と「仏法と宇宙」をめぐり語り合った。
 そのさい、博士も現代の最先端の宇宙論と響き合う仏法の宇宙観に、たいへんに驚嘆しておられた。
 仏法の正しさは、その広がりとともに、また科学が進歩するにしたがって、証明されていくにちがいない。
 カナダのピアソン元首相は、ノーベル平和賞の受賞スピーチで、こう語られた。
 「人類は、外なる世界を征服してきた。しかし、いまだ内なる世界を征服できずにいる」と。
 人間は、はるか宇宙にまで探究の手をのばしたが、我が内なる生命の探究は見すごされてきたといえる。そして今、ようやく、人類は、この「内なる世界」を見つめ始めた。
 その「生命の探究」の潮流をさらに確かにし、さらに高めていくために私は戦っている。各国の世界的識者と語らいを重ねているのもその一環である。私は、全地球を舞台に、仏法を基調にした「対話」また「対話」を繰り広げている。
11  「幸福の王者」「確信の王者」の余裕で
 さて、ここモントリオールは、かつてヨーロッパからカナダを訪れた人々が、新たな出発をした拠点であった。
 ご存じのようにフランスの探検家カルチェが、ホシラガ村の先住者の案内で、この地の山に登ったのは、一五三五年十月二日であった。(ちなみにSGI会長が初の海外訪問に旅立った日も、一九六〇年の同じ十月二日。この旅でカナダを初訪問している)
 眼前に広がる美しき眺め──。カルチェは、感動のあまり、この山を「王の山(モン・ロワイヤル)」と名づけた。これが、モントリオールの名前の由来とされる。
 「王の山」「王者の山」──素晴らしいロマンの響きがある。
 御書には「須弥山のように、『天』と『地』と『人』を貫いて、少しも傾かない存在を『王』という」と説かれている。(「須弥山と申す山の大地をつきとをして傾かざるが如し、天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり」)
 何があっても動じない、何があっても揺るがない。その人が「王者」なのである。
 皆さまは、何があっても揺るがない「幸福の王者」であっていただきたい。「確信の王者」であっていただきたい。
12  妙法に生き抜いた人は、「生も歓喜」、そして「死も歓喜」となる。
 大聖人は仰せである。
 「退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道をさかへり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや
 ──退転することなく仏道修行をして、最後の臨終の時を待ち、ご覧なさい。妙覚の山に走り登って、目を開いて四方を見れば、ああ面白いではないか、その世界は寂光土であり、地面は瑠璃るりでできており、黄金の縄で八つの道の境としている。天から四種の花が降り、天空には音楽が聞こえ、諸仏・菩薩は常楽我浄の風にそよめいて楽しく遊んでおられますよ──。
 「妙なる音楽」「宝石を敷き詰めた大地」「諸仏・菩薩とともに遊ぶ遊楽の境涯」──私どもの死は、苦しみの死ではなく、このような「大歓喜の死」となる。大聖人がそう仰せである。
 そして一家・一族・友人にも大福運を分けおよぼして、次の「大歓喜の生」へと出発していくのである。
13  カナダはカナダらしく、余裕をもって進んでいただきたい。たとえ冷房が壊れても、(国のシンボルである)カエデの葉を扇にし、人間に飽きたら、たくさんいるリスを友達にするとか、「何でも楽しみながら」生きていただきたい。
 私は、皆さまの幸福と健康と長寿を一生懸命、毎日、祈っている。どうか「安心」し、ともに「素晴らしい人生」を生き抜いていただきたい。

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