Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGIイタリア芸術音楽祭 天才とは″永遠の挑戦″の異名

1992.6.28 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
3  まず「徳は、生まれると同時に、自分(徳)に反対する嫉妬をも生み出す。嫉妬を伴わない徳よりも影を伴わない物体のほうが先に現れるだろう」(高徳の人が現れると必ず嫉妬する人が現れる。嫉妬されない高徳の人など、影のない物体よりもありえない)
 これが人の世の現実であろう。ともあれ、やきもちを焼く人よりも、焼かれるくらいの人のほうが幸福である。そういう幸福な人生であっていただきたい。
 また「悪を罰さない者は悪を行えと命じているのだ」(悪と戦わぬ者は、悪を許し、悪を行えと言っているのと同じである)
 これもまた道理である。悪と戦わない人は正義の人ではない。
4  「老年の欠乏をおぎなうに足るものを青年時代に獲得しておけ。老年は食物として智慧を必要とするということを理解したら、そういう老年に栄養不足にならぬよう、若いうちに努力せよ」
 青春の努力が人生の土台である。そして「知恵ある人」は永遠の富者である。
 「食欲なくして食べることは健康に害があるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」
 次元は異なるが、信心の実践も″勇んで″、また″喜んで″行ってこそ、真の大きな功徳はある。いやいやながらの、後ろ向きの一念であっては、本当に深い、汲めどもつきぬ大福運はつかない。その一念の差はまさにタッチの差であるが、結果の違いは大きい。
 「あたかもよく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える」──これは有名な言葉である。
 「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」──創作も人生も同様であろう。日蓮大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せである。
5  死を目前に「私は続ける!」と
 さて、ダ・ヴィンチのいわゆる「最後の言葉」は何か。(彼は一五一六年、六十四歳の時、フランスに出発、フランソワ一世の居城の一つ、アンボワーズ郊外のクルー城に滞在した。二年半後の逝去もクルーの地である。臨終のくわしい状況は伝えられていない)
 死を目前にした彼は、死後のことを、こまごまと指示した遺言状を書くが(死の九日前)、その前に書き残した言葉がある(一五一八年六月)。
 それは「私は続けるだろう」との一言である。何かの計画であったのか、何らかの仕事のことか、芸術のことか、いずれにしても、彼は死を目前にして、なお「私は続ける」と書いている。
 最後まで「努力」、どこまでも「挑戦」、限りなき計画と実行の「持続」「連続」──この、たゆまぬ前進が、「天才」の実質であった。
 生きている限り、私は「戦う」。使命の行動を、私は「続ける」。この決心が、人生の天才、幸福の天才をつくっていく。正義、健康、勝利、幸福、和楽、栄光──すべて、この「私は続ける」という一言の中に凝縮されている。
 大切な、大切な皆さまである。妙法を根本に、自分自身の、はつらつたる″行動の絵″を、そして自在なる″幸福の名画″を描き、現実へと仕上げていっていただきたい。
 再来年の世界青年平和文化祭には、日本をはじめ各国から同志がイタリアを訪問する予定である。きょうは、本当に素晴らしかった。おめでとう!

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