Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ代表者会議 修行の「喜び」が「幸福」を生む

1992.6.11 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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4  釈尊の「私ほど、幸福を求めてきた者はいない」という言葉には、重大な意味がある。
  仏法は決して、人生に背を向けたり、現実から逃避したり、悟りすまして幸不幸を超越したような格好をするものではない。いわんや、自分だけは特別といった錯覚は、仏法とは無縁の人間のものである。どこまでも謙虚な「幸福の追求者」として、万人と同じように、民衆とともに、真剣に仏道修行していく。だれよりも、「福運を積む」機会を逃さず、勇み、喜んで行動していく。「もう、これでいい」などとおごらず、「さあ、また福徳を開こう。永遠の幸福の境涯をつくろう」と戦っていく。その永遠の向上、永遠の闘争の決心に、仏法の精神が脈動している。
  「私が、あなたの針に糸を通そう」──釈尊の短い、一言には、くめどもつきぬ深い心が込められている。その振る舞いには、ともに道を修める同志としての人間平等の哲学が、自然のうちに表れている。
 このエピソードからも、うかがえるように、仏法の教団は本来、釈尊を中心とした、いわば「人間教育の集団」であったと考えられる。特別な権威とか階級とか形式とかではなく、みずみずしく、ともに成長していく″人間錬磨の広場″であった、と。
 一次元から言えば、後世、聖職者によって、ゆがめられた教団を、そうした原点の姿に立ち返らせ、人間尊厳の連帯をつくろうとされたのが、日蓮大聖人であられたと拝される。その御精神をまっすぐに受け継いでいるのが、我がSGI(創価学会インタナショナル)である。創価学会が「創価教育学会」として出発したことは決して偶然ではない。
5  人間関係は「鏡」、人への尊敬が自分を荘厳
 日蓮大聖人は「御義口伝(おんぎくでん)」で、「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」──鏡に向かって礼拝する時、鏡に映った姿もまた自分を礼拝するのである──と仰せである。
  相手の生命の「仏性ぶっしょう」を信じて、心から尊敬し、大切にしていく。そのときに、相手の仏性も、根底的には、こちらを礼拝し返している。広げていえば、自分が誠実そのものの心で人に接していくとき、多くの場合、相手もまた、こちらの人格を尊重するようになっていく。祈りが根本にあれば、なおさらである。反対に、人を軽んじれば、最終的には、自分も軽んじられ、人への憎悪に染まった生命は、自分もまた憎まれる存在となろう。こうした人類の宿命的な悪循環にとどめをさし、人間の「相互尊敬」と「共生」への道を開いていきたい。
 ヨーロッパは人材の城である。人権の先駆の地である。ヨーロッパの勝利が、SGI全体の前進となる。「人間の栄光」を世界に広げている各国の皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えいただきたい

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