Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第五十三回本部幹部会、第八回中部総会 われらの″民衆交響楽″が人類をつつむ

1992.4.26 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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25  邪僧と戦ってこそ正法は万年に伝わる
 こうした五老僧の破仏法の事実を、私どもは、現在、日興上人と門下が著された、「富士一跡門徒存知いっせきもんとぞんちの事」や「五人所破抄」によって、つぶさに知ることができる。
 その意味で、私どももまた、今、眼前の仏法破壊の事実と、私どもの正義を、あますところなく記録し、語り残しておかなければならない。後世のために。真実の「護法」のために。
 日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」の序文に、こう記されている。
 「先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては曾つて異義有るべからざるの処、其の整足の弟子等忽に異趣を起して法門改変すいわんや末学等に於ては面面異轍を生ぜり
 ──まず、日蓮聖人の本意は、法華本門にあることは、かつて異義の無いところであったにもかかわらず、その整足の弟子(五老僧)などが、たちまちに異義を立てて、法門を改変してしまった。まして末流の弟子などは、各自が異なる法義を勝手に言い始めている──。
 五老僧たちは、「法門を改変」して、大聖人の仏法をゆがめ濁らせてしまった。しかも、日興上人が主張された正義に対し、「法門の異類を立てるもので、道を失っており、だれが信じようか」などと、かえって激しく非難した。
 牧口先生は、「悪人の仲間では悪が正で、善が邪であり、曲がった根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われている」と指摘されている。その通りの転倒てんとうであった。
 また、牧口先生は、「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」とも教えられている。
 悪に寛大であってはならない。悪の攻撃以上の正義の叫びで問い詰め、戦い、追撃に追撃を加えるならば、やがて、その正体は満天下に明らかになっていく。
26  日淳上人はお述べになっている。
 「興尊(日興上人)が五師(五老僧)と不和になったのは決して世間の問題からではなく、もっとも大切な生命ともいふべき御法門について此等これら五師がまったく聖祖(大聖人)の御本意にそむたてまつったからである。聖祖の御法門へ異体同心すれば何事もじょうずるが、異心になった方へ同心すれば聖祖の御法門もついに絶へて末法万年の暗愚あんぐの衆生は全く出離生死しゅつりしょうじの道にまよはなくてはならぬ」と。
 現在の状況にも、そのままあてはまる、御指摘であろう。
 現宗門は、人法一箇の大御本尊を根本とする日蓮正宗の宗旨を改変して、法主根本を宗旨としてしまった。そのために、日蓮正宗の立てる「三宝義」を改変して、法主が仏宝・法宝と等しいという法主絶対化を図った。
 さらに、現法主が根本で、大聖人・日興上人さえしゃくであるとする、未曾有みぞうの邪義を主張するに至った。もはや、五老僧に勝るとも劣らぬ、邪宗・邪義のやからと成り下がったのである。
 日淳上人は、さらに「興尊が正義を弘伝ぐでんせられんがために五師と不和なることもかえりみず奮然御立ち遊ばしたことは、もって末法御本仏の御化導を尽未来際じんみらいさいまでの暗愚の衆生にこうむらしめ給ふもの」であるとされ、「風前の燈火ともしびに等しい正法を良く安穏あんのんたざらしめたことは唯仏与仏ゆいぶつよぶつの御境界の初めてあたふところである」と。
 私どもは、この日興上人の、正法厳護の御精神のままに進む。大聖人が遺された「民衆のための仏法」を守り抜くために「現代の五老僧」と戦っている。私どもの戦いこそ、まさに風前のともしびにも等しかった正法を、末法万年のために伝えゆく、「令法久住りょうぼうくじゅう」の戦いなのである。
27  創立七十周年、八十周年を大歓喜の歌で飾れ
 きのう、そして、きょうの中部の青空は素晴らしい。私は二首、歌をんだ。
   晴ればれと
     五月三日の
        喜びは
     君も私も
        宝の光りに
   素晴らしき
     創価の元朝
        祝賀せむ
     五月三日の
        太陽浴びつつ
           ──中部にて
 つつしんで贈らせていただく。
 それでは、ともどもに晴れやかな「五月三日」を、お祝いしましょう。
 そして、創立七十周年(二〇〇〇年)を「大歓喜の歌」で、八十周年(二〇一〇年)を「大歓喜の中の大歓喜の歌」で飾りたいと申し上げ、お祝いのスピーチを終わらせていただく。
 長時間、本当にご苦労さま。本当に、ありがとう。

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