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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会、茨城県総会 登ろう!最高峰の青春の山へ

1992.4.12 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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20  この七郎五郎は、父が亡くなった時、母のおなかにいた子供である。母にとって、生きる支えとも思ってきた最愛の子を、突然失った悲嘆はいかばかりであったことか。今でいえば、我が子を懸命に後継の人材に育て上げてきた婦人部のお母さんである。
 大聖人は、その心に、深く深くみ入るように″同苦″の言葉を送っておられる。一人の母の言い尽くせぬ悲しみを、本当に我が悲しみとして、包容し、一緒に心で泣いてくださっている。
 同情などという次元ではない。まさにその人と一体となっての″同苦″のお姿であられた。苦悩の人と同じ「心」を、同じ苦しみ、同じ悲しみを共有しておられた。これが、御本仏・日蓮大聖人の御振る舞いであられた。「人間」の最極さいごくのお姿を私どもは涙とともに拝する。
 我が学会も、どこまでも御本仏の深き「人間主義」に連なっている。
 心からの″励まし″こそ、仏法者のあかしである。悩む人、苦しむ人には、即座に、″激励の声″を送り届ける。悲しみを勇気に、悩みを希望に変えていく──。それが、大聖人の御精神であられた。
 本来、それは日蓮正宗のあるべき姿でなければならなかった。しかし現在の宗門には、慈愛の心など、微塵もない。もはや大聖人に敵対する「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」のみにくい姿にしてしまった。
21  三世の幸福は仏眼・法眼で
 大聖人に直接お目にかかった門下であっても、若くして亡くなる場合があった。さらに、幾多の法難のなかで、どれほどの門下が死に、迫害を受けたことか──。
 釈尊の在世においても、多くの一族や門下が、悪の権力者に殺されている。たとえば、「開目抄」には「無量の釈子は波瑠璃王に殺され」等と仰せである。
 かりに、信心強盛にして不慮ふりょの死──事故死したり、若死にしたりしても、御聖訓に照らし、仏のまなこから見れば、何らかの深い意味がある。生前の福徳、また追善供養で救われることも間違いないと確信する。
 表面的な現象また目に見える形のみで云々うんぬんできないのが、仏法の深遠さなのである。
 仏法の真髄しんずいは、凡眼ぼんげんにははかり知れない。いわんや嫉妬に焼かれ、感情に眼を曇らされた人間には、″真実″は何も見えない。
 私どもが信じ奉るのは、三世永遠に及ぶ大聖人の「仏眼」「法眼」である。それ以外の何ものにも煩わされる必要はない。
 この大確信で、「素晴らしい一生」を、「楽しい一生」を、ともどもに歩み、勝ち取ってまいりたい。きょうは本当に、ありがとう!

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