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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会、茨城県総会 登ろう!最高峰の青春の山へ

1992.4.12 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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19  「まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて・いとをし最愛をとこに・ぎわかれたりしかども・子ども・あまた数多をはしませば心なぐさみてこそ・をはしつらむ
 ──ましてや、母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれ、最愛の夫にも死に別れたが、子供が大勢いらしたので、心を慰めておられたことでしょうに──。
 「いとをしき・てこご・しかもをのこごみめかたち容貌も人にすぐれ心も・かいがいしくへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候いしに・あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ、まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず
 ──かわいい末の子で、しかも男の子、容貌も人にすぐれ、心もしっかりして見え、よその人々もさわやかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花のつぼみが風にしぼみ、満月が急に消え隠れてしまったように感じられる。本当のこととさえも思えず、励ましの言葉も書きようがない──。
 「追申、此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに・又見候はざらん事こそかなしくは候へ、さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり
 ──追伸。この六月十五日に(七郎五郎殿に)お会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、(すばらしい)男である、男であると見ていたのに、再び会えないとは、悲しいことです。しかしながら、(七郎五郎殿は)釈迦仏、法華経に身を入れて深く信仰されていたから、臨終も立派だったのです。心は、(先立った)父君と一緒に霊山浄土に参り、手をとり、頭を合わせて喜ばれていることでしょう。感動的なことです。感動的なことです──。
 追伸に仰せの通り、七郎五郎は、死のわずか三カ月前、兄・時光とともに大聖人のもとを訪れている。大聖人は、その凛々りりしき兄弟の姿を心から喜ばれ、将来を期待されていた。それだけに七郎五郎の悲報にふれて、大聖人は「夢か幻か、いまだに判断がつきかねるほどです」と──。だれもが驚き嘆いた出来事であった。
20  この七郎五郎は、父が亡くなった時、母のおなかにいた子供である。母にとって、生きる支えとも思ってきた最愛の子を、突然失った悲嘆はいかばかりであったことか。今でいえば、我が子を懸命に後継の人材に育て上げてきた婦人部のお母さんである。
 大聖人は、その心に、深く深くみ入るように″同苦″の言葉を送っておられる。一人の母の言い尽くせぬ悲しみを、本当に我が悲しみとして、包容し、一緒に心で泣いてくださっている。
 同情などという次元ではない。まさにその人と一体となっての″同苦″のお姿であられた。苦悩の人と同じ「心」を、同じ苦しみ、同じ悲しみを共有しておられた。これが、御本仏・日蓮大聖人の御振る舞いであられた。「人間」の最極さいごくのお姿を私どもは涙とともに拝する。
 我が学会も、どこまでも御本仏の深き「人間主義」に連なっている。
 心からの″励まし″こそ、仏法者のあかしである。悩む人、苦しむ人には、即座に、″激励の声″を送り届ける。悲しみを勇気に、悩みを希望に変えていく──。それが、大聖人の御精神であられた。
 本来、それは日蓮正宗のあるべき姿でなければならなかった。しかし現在の宗門には、慈愛の心など、微塵もない。もはや大聖人に敵対する「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」のみにくい姿にしてしまった。
21  三世の幸福は仏眼・法眼で
 大聖人に直接お目にかかった門下であっても、若くして亡くなる場合があった。さらに、幾多の法難のなかで、どれほどの門下が死に、迫害を受けたことか──。
 釈尊の在世においても、多くの一族や門下が、悪の権力者に殺されている。たとえば、「開目抄」には「無量の釈子は波瑠璃王に殺され」等と仰せである。
 かりに、信心強盛にして不慮ふりょの死──事故死したり、若死にしたりしても、御聖訓に照らし、仏のまなこから見れば、何らかの深い意味がある。生前の福徳、また追善供養で救われることも間違いないと確信する。
 表面的な現象また目に見える形のみで云々うんぬんできないのが、仏法の深遠さなのである。
 仏法の真髄しんずいは、凡眼ぼんげんにははかり知れない。いわんや嫉妬に焼かれ、感情に眼を曇らされた人間には、″真実″は何も見えない。
 私どもが信じ奉るのは、三世永遠に及ぶ大聖人の「仏眼」「法眼」である。それ以外の何ものにも煩わされる必要はない。
 この大確信で、「素晴らしい一生」を、「楽しい一生」を、ともどもに歩み、勝ち取ってまいりたい。きょうは本当に、ありがとう!

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