Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二回大田記念文化音楽祭 一人の勇気が万人の勝利を

1991.8.31 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
2  『レ・ミゼラブル』は、私も青春時代、最も愛読した作品の一つである。読んでは思索し、思索しては読み、重要な個所は、ほとんど暗記するほどに読み込んだ。もちろん御書も、御文が口をついて出てくるぐらい、何回も何回も繰り返し拝読した。
 御書の拝読は当然のこと、若い時にこそ、良書を読まなくてはいけない。
 戸田先生は、それは厳しかった。「長編を読め、古典を読め。今、読んでおかないと、人格はできない。本当の指導者にはなれない」。青年が、くだらない雑誌など読んで、面白がっているようでは、立派な指導者にはなれない、と。
 ともかく青年部は、皆、読まされた。私も徹底して読んだ。今なら喫茶店へ行ってコーヒーでも飲みながら、といったところだろうが、当時はそんな余裕などなかった。
 私はよく墓場で読んだものだ。いちばん静かだし(笑い)、一銭もかからない(爆笑)。それぐらい集中して、むさぼるように読んだのが、『レ・ミゼラブル』でもあった。
 そこで、きょうは、ユゴーの傑作中の傑作といわれるこの作品の一場面をとおして、少々、お話ししたい。
3  ユゴーは描いた――一人の決起が万軍の勇気に
 一八三二年、パリで共和主義の理想を掲げた民衆が立ち上がった。革命である。ここにユゴーが描こうとしたのは、皇帝でもなければ、一部の権力者でもない、「民衆」の歴史であった。
 時代はやがて「民衆」を主権者に選ぶ。必ず「庶民」を王座に据える――。その″時の必然″を予言したのが、ユゴーであった。
 先日、ソ連の保守派によるクーデターが失敗した。決め手は「民衆」の決起であった。
 ある婦人部の方が、手紙で、このように述べておられた。
 ――ゴルバチョフ大統領が軟禁されていると報じられた時、池田先生の友人であり、世界にとって大切な人だからと思い、無事を一生懸命、祈った――と。
 また――ソ連の場合は、民衆への反逆者は国法によって処罰されるが、仏法の世界には権力による裁きはない。しかし、日蓮大聖人のお裁きは絶対です。国法で裁かれることなど、比較にならないくらいの、厳然たる結果が表れるにちがいありません――と。
4  さて、舞台はパリ。理想を掲げ、立ち上がった庶民は、街角にバリケードを築き上げる。が、たちまち強大な軍隊に包囲された。
 「撃て!」の掛け声とともに、一驚射撃が始まる。バリケードの上に掲げた民衆の旗も、一瞬にして吹き飛ばされてしまった。
 われらの戦いの旗を、ふたたび打ち立てなければ! ――だれもが、そう願った。しかし、圧倒的な猛攻撃に、それまで大胆であった青年たちも、皆、肝をつぶし、たじろいだ。逃げだしたいと思った者も、いたかもしれない。
 だれが旗を立てるのか。申し出る声はなかった。外に出れば、間違いなく殺される。数えきれないほどの銃口が、その瞬間を待ち構えていた。
 だがこの時、八十歳を超えた一人の老人(マブーフ)が進み出た。そして、旗を手にし、平然と、バリケードの上へ上り始めたのである。
 バリケードを包囲した敵軍は、暗闇の中で銃を構え、待ち受けている。重苦しい沈黙――。だれもが固唾をのんだ。彼はどうなるのか? このまま死んでしまうのか?
 しかし、老人は確固たる足取りで、一段、また一段と、バリケードの敷石の段を上っていく。悠然と、いささかのためらいもなく――。それは鮮烈な絵のごとき光景であった。
 撃つなら撃て! それが、老人の覚悟であった。信念のためなら、死をも恐れない。それが本当の「革命児」である。人間として「偉い人」である。
 人間としての偉大さ――それは、わが信念に忠実であったかどうかで決まる。信念を貫き通した人は偉い。どんなに理屈をつけようとも、信念を捨て、誓いをともにした同志を裏切ったならば、人間として最低の所業であろう。
 地位が「人間」をつくるのではない。財力が、権威が「人間」を高めるのではない。反対である。「人間」がどうかである。偉大な人間は一切を偉大に高める。卑しき人間は一切を卑しく、無価値にする。
5  バリケードの上に立つと、老人は、手にした旗を振って叫んだ。「革命万歳! 共和万歳! 友愛、平等、そして死よ!」(齋藤正直訳、潮文庫。以下、引用は同書から)と。
 革命のため、人間共和の理想のために死ぬのであれば、死さえも「万歳」である、と。ユゴーの深い生死観をうかがわせる一節である。
 学会の同志のなかにも、「広宣流布万歳」「創価学会万歳」等と言って亡くなった方が幾人もおられる。
 この時、老人に向かって、敵の一斉射撃が始まる。彼は銃弾の雨の中を、ただ一本の旗を握りしめて立つ。いったんは膝をついたが、また立ち上がる――そして、ついに老人は、空を仰ぎ見るようにして倒れた。
 無名の勇者の、毅然たる最期。バリケードの青年たちを、厳粛な感動がつつんだ。
 ″諸君、これこそ老人が青年に示した模範なのだ。われらは臆病だった″――青年のリーダーは、声をしぼり、呼びかける。
 「われわれはためらったが彼は進み出た! われわれは尻ごみしたが彼はつき進んだ!」
 老人にのみ集中砲火を受けさせて、その後ろに臆病にも身を隠す――それではあまりに恥ずかしい。とても革命を口にすることはできない、と。
 前へ、あくまでも前ヘー――それが、老人が身をもって示した遺言であった。
 前ヘ! ――私も、十九歳の入信以来、四十四年間、いつ死んでもいいという決心で戦ってきた。
 仏法では「臨終只今」と説く。その仰せを拝し、ひたすら「前へ前へ」と走り続けた。戦い続けた。一歩も退くことなく、障魔の嵐を一身に受けながら、妙法を世界に広宣流布してきた(拍手)。ゆえに、私は何ものも恐れない。一点の悔いもない。一切は、御本仏が御照覧くださっていると確信する。(拍手)
 さらに、青年は叫ぶ。
 「彼はながい人生と、偉大なる死とを得た」「われわれはみんな、生ける父を守るかのように死せる老人を守ろうではないか。そして、われわれのうちに彼があることによって、バリケードを難攻不落のものとしようではないか!」
 ――あの老人は、われらの胸中に生きている。彼に続け! 彼の勇気をわが勇気として、崩れぬバリケードを築こう、と。
 理想に殉じた先駆者と後継の青年との、美しきドラマである。
6  ユゴーは、こうした無名の庶民の勇者を克明に描き、永遠に残している。有名人が偉いのではない。権力者が、高位の者が偉いのではない。本当に歴史を動かしている主役は、無冠の人間、名もなき民衆である。
 ここにしか真の人間の歴史はない――これが、ユゴーの「史観」であった。
 創価学会も、あくまで「民衆が第一」「会員が原点」である。この基本は、永遠に不変である。絶対に忘れてはならない。(拍手)
 わが「創価の城」は「民衆の城」である。最前線で真剣に戦っている雄々しき友こそ、広宣流布の「英雄」なのである。これまでも、いわゆる有名な幹部よりも、第一線の友のほうが、どれほど勇敢であったか。私は見てきた。私は忘れない。(拍手)
 大田の皆さまは、この老人に負けないような、勇気ある「王者」として、仏意仏勅の崇高なる学会の「正義の旗」を打ち立てていただきたい。そして、この「創価の城」を見事なる「難攻不落の城」に築き上げながら、堂々と「仏法勝利の旗」を示しきっていただきたい。(拍手)
7  抑圧の組織は伏せられた器
 さて仏法では、人間の生命を「法器」といって、「器」に譬える場合がある。
 (法器〈法の器〉とは、仏道修行に耐えうる存在のこと。また「秋元御書」には「器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり」と仰せになり、器の四つの欠点として、(1)「覆」〈にせる、蓋をする〉(2)「漏」〈水がもる〉(3)「」〈器が汚れている〉(4)「雑」〈入れたものに、汚いものが混じる〉を挙げられている)
 一般的にも、組織もまた一つの器といわれる。上が下を抑えつける組織は、器が伏せられ、下を向いているようなものである。あるいは、蓋で覆っている状態に似ている。新しいものは、何も入らない。一見、まとまりがあるように見えて、中は暗く、発展性も、もはやない。
 上に立つ人がいばったり、ことなかれ主義で皆の意見を抑えつけたり、要領よく現状を維持させることだけを考えたり――それでは器が″転倒″しているような姿である。
 上の人が、むしろ皆を下から支える――それが「器」としての組織の本来のかたちである。そうすれば、器は広々と明るい。さまざまなものを載せられる。さまざまな人々をつつむことができる。ゆえに発展もしていく。正法の和合僧が拡大していく。
 器の下にもぐりこみ、人々を押し上げていくリーダー。御本尊のほうへ、広宣流布のほうへ、太陽の方向へ、功徳の方向へ、成長の方向へと支え、励まし、向かわせていく。それができるのが、真のリーダーである。
 そうすれば人材も出てくる。皆、はつらつと力を出していく。自分も守られる。おたがいにとって価値がある。
 命令で人を使い、権威で人を従わせるのが指導者なのではない。よけいな、抑圧の″蓋″になっては断じてならない。器を転倒させてもならない。
 ともあれ、中身のために器がある。会員のために学会の組織はある。仏子のために、仏法のすべての指導者はいる。(拍手)
8  坂本龍馬をはじめ、幕府を倒した志士たちも、″時代″を見失い、″民衆″を抑えつける「旧き権威・権力」に見切りをつけた。本日は、くわしいことは略させていただくが、高知などでは、その「自由」への脈動が自由民権運動となり、さらには民衆主体の先駆的な憲法草案(植木枝盛による)となって生き続けた。
 この「民衆の力」――その無限のパワーを最大限に発揮させるのが、本来、日蓮大聖人の仏法なのである。
 昨日、秋谷会長が、ある一流企業の社長と懇談した。そのさい、「戒名」について、その会社では、代々の社長が亡くなっても戒名はつけないことになっている、という話が出たと聞いた。
 最近では、形式的な葬儀も行わない人が増えているようだ。戒名も無用と考える人が多くなっている。時代は刻々と変わっている。仏法の本来の合理的な精神に近づいている面があるといってよい。
9  悪と戦うべき″時″は今
 大田の地ゆかりの池上兄弟に対し、大聖人は次のように仰せである。
 「其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候、此の法門・経のごとく・ひろまり候わば御悦び申すべし
 ――そのうえ、あなた(弟・宗長)の御事については、心の内に感じ思うことがあります。この法門が経のごとく弘まっていくならば、(あなたに)お喜びを申し上げましょう――と。
 大法弘通のために、難と戦い、苦労を重ね、一生懸命に尽くしてきた仏子のことを、大聖人は最大に尊重されている。
 「あなたのことを心に深く留めていますよ」――。忘れませんよ、と。
 これが門下に対する大聖人のお心であられた。そして、正法が拡大しゆく喜びを、だれよりも苦労した信徒と分かち合おうとされている。なんと深い御本仏の大慈悲であろうか。(拍手)
 いわんや、今日、創価学会が「全世界」を舞台に進めている「広宣流布」の壮大な広がり――その「正法興隆」の姿を、御本仏日蓮大聖人はどれほど喜ばれ、御称讃くださっていることであろうか。(拍手)
 もしかりに、仏子である学会員の尊い功労を、いささかでも軽んずるようなことがあるとすれば、それは大聖人のお心への重大な違背であると断じておきたい。
10  本来、大聖人の門下であるならば、どこまでも「御本尊」と「御書」を根本の基準として、すべてを正しく公平に、冷静に判断していくべきであろう。自分の感情にまかせて、策略や虚偽を弄し、御書の仰せをないがしろにするのでは、仏法破壊の行為である。
 仏法破壊は大謗法である。謗法とは断固、戦わなければ、こちらまで謗法になってしまう。悪と勇んで戦わなければ、結果的に悪を認めたことになり、悪の味方になってしまう。大聖人の仏法は、「お人よし」をつくるのではない。「戦う正義の勇者」を、「鋭き民衆の賢者」をつくるのである。
 飛ぶべき時に飛んでこそ飛行機である。走るべき時に走ってこそ列車である。語るべき時に語るために、言葉という武器はある。戦うべき時に戦ってこそ、大聖人の真実の門下である。(拍手)
 「悪」と戦えば、生命は「善」の力で勢いづいていく。健康になっていく。福徳がつく。境涯が開ける。宿命が転換されていく。一家も大きく守られる。極悪との戦いは、極善の自身になりゆく絶好のチャンスなのである。
 仏法では″時″が大切である。立つべき時に立たなければ、わが身が障魔に食い破られてしまう。
11  さらに大聖人は、この御文に続いて「兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず不和にわたらせ給ふべからず」――ご兄弟の仲は、決して不和であってはなりません。決して不和であってはなりません――と戒めておられる。
 広くいえば、私ども同志も、妙法の「兄弟」である。ある意味で、肉親の兄弟以上の、永遠の兄弟である。決して「不和」などあってはならない。
 「団結」こそが、広宣流布の力である。仲良き「団結」のなかに、妙法は生き生きと躍動する。大功徳も現れる。
 この御文に照らしても、学会のうるわしい「和合僧」を壊そう、引き裂こうなどとすることが、大聖人のお心に対する敵対であることは明白である。(拍手)
12  ″源流・大田″の勝利が学会の勝利
 ともあれ、学会による「広宣流布」の拡大の歴史を、大聖人は最大にお喜びくださっていることは間違いないと確信する。(拍手)
 そして、学会の「新しい拡大」の一歩は、多く、この大田の地から始まってきた。
 この歴史を大いなる誇りとして、大田が厳然と、年ごとに輝く「黄金の歴史」をつづっていくならば、わが創価学会は盤石である。いよいよ発展していくと申し上げたい。大田の勝利が、学会の勝利である。(拍手)
13  創価学会の″歴史の原点″大田――。永遠の誉れの地である。永久に栄えあれ! と祈らずにいられない。
 どうか、「最高に仲の良い大田」「最高に戦う大田」と仰がれる、見事な歴史を築いていただきたい。この一点を心から念願し、本日の祝福のあいさつとしたい。(拍手)
 なお、本日は伊豆七島の代表の方々も参加されている。遠いところ、本当にご苦労さま。時間の許すかぎり、ごゆっくりなさってください。また東京各区、神奈川からも大勢の代表が参加されているほか、本部研修のため上京された北陸の友も出席されている。遠路の来訪を心から歓迎し感謝申し上げたい。(拍手)
 さらに、本日の模様が伝えられている世田谷の記念講堂、川崎の平和講堂に集われた皆さまも、本当におめでとう。(拍手)
 皆さま、また何度も、お会いしましょう。一緒に歴史をつくりましょう。
 (大田文化会館)

1
2