Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布三十周年記念フランス総会 「賢者の道」が「幸福の道」

1991.6.18 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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8  大聖人は引き続き、こう仰せである。
 「但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り、今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読むのきざみ何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出す可からざるか、設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の事・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず麤言そげんを出さず輭語なんごを以て申す可し各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか、是くの如き事書札に尽し難し心を以て御斟酌しんしゃく有る可きか、此等の矯言きょうげんを出す事恐を存すと雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり
 ――裁判のうえでの注意などについては、かねてよりご存じのことと思いますが、駿馬にも鞭を打つ、というたとえもありますので、あえて少々申し上げます――と。
 大聖人はこのように、門下の自尊心を最大に尊重しながら、語りかけておられる。
 ――今日、裁判に出て、公の場に臨まれてから後は、たとえ知り合いの間柄であっても、同僚などに対して、いいかげんな言葉は慎むべきです。両方(こちらと相手)が呼び出されて、御奉行が訴状を読み上げる時には、何事につけても、御奉行の方からお尋ねのないことは、一言たりとも口に出してはなりません――。
 すなわちマナーを守り、よけいなことは言ってはならない。軽はずみな言動はしないように、と忠告されている。
 ――また、たとえ敵方の者が、悪口を吐いても、あなた方の身のうえのことは、一、二度までは聞かぬふりをするのがよいでしょう――。
 低次元の悪口などは聞き流しなさい、と。
 ――悪口が三度にもおよぶ時には、あなた方は顔色を変えず、語気を荒立てたりしないで、やわらかな言葉で切り返していきなさい。たとえば、相手に対して、「あなた方とは同じ立場の同輩であり、個人的にはまったく遺恨などありません」と言うのがよいでしょう。また、あなたの供の者たちにも十分に注意して、喧嘩など引き起こさないようにするべきでしょう。このようなことは、書面では意を尽くせないので、どうか心でくみとっていただきたい――と。
 このように大聖人は、門下に対し、裁判に臨んでの立ち居振る舞いにいたるまで、こまやかに御指導をされている。門下の身を深く案じ、しかも敵方の心理まで的確に見抜かれたうえでの具体的アドバイス――在家の門下への御本仏の大慈悲が拝されてならない。
 仏法は最高の「人間学」でもある。どのような状況に立たされても、最高の″紳士″として、また最高の″淑女″として、堂々と、悠々と、聡明に振る舞い、そして勝利していく――その英知と勇気の源泉が、妙法である。信心である。
 まことの信心に徹する時、仏法勝負の証は、厳然とあらわれる。どうか皆さまも、「サント・ヴィクトワール山(勝利山)」の高みから、下界を見おろすがごとき境涯で、何があっても、つねに懐深く余裕をもって進んでいただきたい。その朗らかな輝きに、人々は仏法の正義の光を感じ、受けとめていくのである。(拍手)
9  さらに、大聖人は、このお手紙の末尾に、こう記されている。
 「此等の矯言きょうげんを出す事恐を存すと雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり
 ――このような説教めいたことを申し上げるのは、たいへん恐縮ですが、しかし、仏の経とその行者と檀那(在家の人)との三者が相呼応して一事を成し遂げたいがために、このような愚言を申し上げたのです――と。
 大切な「一事」を成就するには、仏の教えと、行者、すなわち別しては日蓮大聖人、そして在家の門下のいずれもが欠けてはならない、との仰せと拝される。
 大聖人は、つねにどこまでも、在家の門下を尊重しておられる。これほどまでにと思うほど、心をくだき、気を配られている。私どもは、この大聖人の大慈悲を深く拝し、御遺命である「世界広宣流布」という根本の「一事」へ、まっすぐに進んでまいりたい。(拍手)
10  幸福の最大の敵は″善心破る″悪友
 最後に、悪知識、すなわち信心を妨げようとする悪友について述べられた御聖訓を拝したい。
 「悪知識と申すは甘くかたらひいつわび言をたくみにして愚癡の人の心を取つて善心を破る」――悪知識というのは、甘い言葉で語り、いつわり、媚び、言葉たくみに、愚かな人の心を取って、善心(信心)を破る――と。
 そして涅槃経等の文を引かれ、「悪象」、今でいえば車、戦車などに殺されても、「身」を破るだけで、「心」までは破れない。「悪知識」は両方とも破り、地獄に堕とすと。ゆえに、何より悪知識を恐れ、悪知識を見破り、遠ざけよと説かれている。
 味方のような顔をして近づき信心を破る。言葉たくみに何とか退転させようとする。それが悪知識である。この「悪い友」こそ、幸福と成仏の最大の敵なのである。
 反対に、「信心」を教え、ともに「行学」を深め、正法流布に仲良く進んでいく。これが「善き友」(善知識)である。創価学会は「善き友」の最高の集いなのである。
 善知識は「法」が中心である。私どもでいえば、御本尊と御書を根本とする。悪知識は「自分」が中心である。ゆえに、その時々によって言動が違ってくる。
 いずこの国であれ、広宣流布が進めば進むほど、そうした悪知識も多く出てくることは、経文と御書に照らして当然である。見破り、打ち破ってこそ、広々とした、朗らかな、晴れやかな″皆の幸福の緑野″が開けてくる。(拍手)
 どうか、いつも、そしていつまでも、″世界一朗らかなフランス″であつていただきたい。このことを強く念願し、本日の祝福のスピーチとしたい。(トレッツ・欧州研修道場)

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