Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九回九州総会 われらは「幸福の大船」の仲間

1990.9.25 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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9  ″人生の大満足″の航海を共々に
 さて日蓮大聖人は、日妙聖人と乙御前という母娘に、法華経のすばらしさを、わかりやすく教えてくださっている。母娘は、はるばる佐渡まで大聖人を訪ねたことで有名である。
 まず「小乗経と申す経は世間の小船のごとく・わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸にけて彼岸へは行きがたし、又すこしの物をば入るれども大なる物をば入れがたし」と。
 ――小乗経という経は、世間の小船のように、わずかに人を二人、三人等は乗せられるが、百人、千人という多人数になると乗せられない。たとえ二人、三人等は乗せたとしても、こちらの岸に船をつけて浮かべるだけで、向こう岸には行くことがむずかしい。また少しの物を入れることはできても、多くの物を入れることはむずかしい――。
 このように、「船」の力にたとえて、教えの高低浅深を、まことにわかりやすく説いてくださっている。
 ″わかりやすい″――ここに慈悲の表れがある。智慧の証明がある。あたたかい人間性の光がある。相手の胸に入らないような、ただ難解なだけの話では、自己満足といわれてもしかたがない。それは正しい仏法の精神ではない。
 さらに大聖人は「大乗と申すは大船なり人も十・二十人も乗る上・大なる物をも・つみ・鎌倉より・つくし筑紫みち陸奥の国へもいたる。実経と申すは又彼の大船の大乗経には・にるべくもなし、大なる珍宝をも・つみ百千人のりて・かうらい高麗なんどへも・わたりぬべし、一乗法華経と申す経も又是くの如し」と仰せである。
 ――それに対し、大乗という教えは大船である。人も十人、二十人も乗せるうえ、多くの物をも積み、しかも鎌倉から筑紫(九州方面)、陸奥(みちのくとされた東北方面)の国へも行くことができる。そのうえ実経(法華経)というのは、その大船の権大乗経(大乗の中でも仮の教え)とは比較にならない。
 たくさんの珍宝をも積んで、百人、千人の多くの人々が乗り、高麗(当時の韓・朝鮮半島の国)などへも渡ることができる。一切衆生を等しく成仏の彼岸に到達させる一乗法華経という経(御本尊)もまた、この大船のようなものである――。
 大海原を、たくさんの珍しい宝と、たくさんの仲間を乗せて、楽しくにぎやかに、悠々と進みゆく大船。はるかな″あこがれの国″へと、希望を満載して航海する宝の船――。大聖人は、お母さんと娘さんに対して、鮮やかに目に浮かぶように、やさしく語りかけておられる。おとぎ話を聞くような胸はずむ思いのなかに、二人はどんなにか御本尊への確信を強めたことであろうか。
 そして、私たちの「生命」もまた「宝の大船」であるというのが、法華経の教えである。世界、宇宙のあらゆる宝が、わが信心の「一念」の蔵に収まっている。それを開くかどうかである。
 福運の扉を開ければ、そこから、いくらでも「珍宝」も入ってくる。所願満足の生活が開けてくる。すべて自分の一念しだいである。この一点を確信し、限りなく境涯を開き続けるのが、私どもの信仰である。
 しかも自分のみならず、多くの人々をも乗せてあげ、楽しませてあげながら、自他ともに人生を遊戯していけるのが「信心」という偉大な「大船」なのである。(拍手)
10  なお、先日、私は韓国を初訪問した。韓国は大聖人御在世当時、ここに仰せのように高麗と呼ばれていた。宝を積んで高麗へ――御書に述べられているとおり、今回、″美の宝″とともに、文化交流の一歩をしるすことができた。
 これまで日本は、この″文化の大恩人″である隣国に、宝を持っていくどころか、宝を奪い、宝を破壊する非道を繰り返してきた。この悪の歴史を、絶対に転換しなければならない。
 高麗の民衆にも深い思いを寄せておられた大聖人――私は今回の交流を、大聖人も必ずや喜んでくださっていると信じている。(拍手)
 ともあれ、本日は「大九州号」という大船の船出の日である。明年は第十回の総会。一年ごとに船も立派にし、人材も多くしながら、福運を満載して、世界の九州らしく、堂々と仲良く二十一世紀への大海原を先駆していただきたい。(拍手)
11  人生の究極の目的を明確に
 人生の究極の目的は何か――それは、幸福になることである。
 信心の究極の目的は何か。それは、「成仏」――仏に成ることである。
 この根本の目的を明確にし、この目的のために、ひたすら努力し進んでいっていただきたい。
 この目的を忘れたときに、信心に狂いが生じる。自分の慢心にも流される。世間の風評にも心動かされる。人生の道を誤ってしまうのである。
 成仏の境界を、わかりやすく身近な言葉でいえば、宇宙のすべての珍宝で生命を飾り、永遠に崩れない幸福境涯で生命を固めていくことであろう。
 一方、世間でいう幸福は、あくまでも相対的なものであり、何かをキッカケに崩れてしまうものである。この永遠に崩れざる幸福境涯を築くための修行こそが、私どもの信心である。
 ゆえに信心だけは、みずからの決めた道を、堂々と進んでいただきたい。他の人がどうというのでもない。社会がどうというのでもない。みずからの人生は、自分らしく、確信をもって生きぬいていく以外にない。その生き方が、もっとも正しく、もっとも悔いのない人生なのである。
 九州の皆さま方のご健康、そしてすばらしい人生の一歩前進を心からお祈りして、私のスピーチを終わらせていただく。
 (九州講堂)

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