Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三十三回本部幹部会 信仰の青春の炎を永遠に

1990.9.18 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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14  「魂の自由」は信仰者の生命
 大聖人の御聖誕(一二二二年)は、マグナ・カルタの成立(一二一五年)と、ほぼ同時期にあたる。
 以前にも申し上げたことであるが、大聖人は、民衆と権力者との関係性、人間の本質的な平等について、御書の各所で示されている。
 たとえば「王は民を親とし」――国王は民を親のように大切にしていくべきものである――。「国主は理を親とし非を敵とすべき人」――国主とは道理を親として非道を敵とすべき人である――。「一人を手本として一切衆生平等」――一人を手本として一切衆生は平等である――等々。
 こうした御文に示される大聖人の仏法からみれば、マグナ・カルタの精神は、その序分、流通分ともいえまいか。仏法には、どれほど偉大な、先駆的な理念が脈打っていることか。
 大聖人は、民衆が根本だと仰せである。その教えに反して民衆を軽蔑したり、見くだしたりするなど、とんでもないことだ。それは大聖人の精神に、根本的に反する。
 だれが本当に民衆の味方となり、民衆を守りゆくのか――ここに、「永遠に民衆の側に立つ」との基本路線を掲げた創価学会の存在意義がある。私どもは、つねに大聖人のご精神を拝し、前進してきた。その誇りと使命は、これからも絶対に変わることはない。(拍手)
 また大聖人は、こうも述べられている。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」――権力(鎌倉幕府)が支配する地に生まれあわせた以上は、身は幕府の命に従えられているようであるかもしれない。しかし、心は決して従えられない――と。
 これは、大聖人が三度目の国主諌暁の折、時の幕府の実力者・平左衛門尉と会われ、直接、諫められたお言葉である。大聖人は、どんなに世間から悪口をあびせられ、権力者から圧迫されようとも、微動だにされなかった。道理のうえから、厳然と正邪を言いきり、戦われた。
 何ものにも左右されない、何ものにも侵されないのが信仰者の魂である。その″魂の自由″を、わが胸中に燦然と輝かせていく。自身の幸福のための″真実の自由″を堂々と宣言していく――。これが大聖人の仏法の精神である。また、学会の行き方である。
 どうか皆さまは、この強き信心の確信で、大宇宙のごとぐ広々とした″魂の自由″″真実の自由″をつかみ、満足の境涯を開いていっていただきたい。
15  最後に、戸田先生の言葉を紹介したい。
 先生は、かつてこのように語っておられた。
 「政体とか政権とかいったものは、大きくみれば、民衆の意思によって、その時代時代で変わっていくものだ。そんな移ろい易いものに眼を奪われ、民衆自身に光をあてなければ、この厄介な社会を寂光土化(=妙法を根本に平和で安穏な世界を築くこと)する広宣流布の仕事は決してできない」と。
 つねに民衆に目を向け、光を当てていかなければ、広宣流布は進まない。広布が進まなければ、人類は永遠に闇につつまれ、不幸の流転におちいってしまう。このことを、戸田先生は鋭く洞察されていた。
16  広布の偉業は必ずや歴史が証明
 広布の活動は、いわば″長期戦″である。とともに私どもは、日々、どれほど壮大な、確かなる歴史をつづりゆく偉業に、邁進していることか。ゆえに今は、たとえどんなに目立たなくとも、また人々から誤解され、正しく評価されなくとも、まったく気にすることはない。永遠の生命観、歴史観からみれば、それらは一瞬の出来事にすぎないし、とるにたらないことである。
 しかし、私どもの足跡を、十方の仏・菩薩が最大に讃嘆し、いずれ後世の人々が瞳目する時がくることは絶対に間違いない。その時になって初めて、広宣流布という未聞の偉業が、歴史のうえに厳然と証明されるのである。このことは、大聖人の仰せからも明らかであり、夜が明ければ太陽が昇るのと同じように、必然の理なのである。(拍手)
 意義ある創立六十周年。私はこれからも、皆さま方の激励のために全国を回りたいと念願している。
 どうか皆さま方は、朗らかに、どこまでも朗らかに、そして仲良く、どこまでも仲良く前進していただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価文化会館)

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