Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回長野県総会 わが生命の「幸福の官殿」開け

1990.8.12 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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15  それでは、嫉妬の反対は何であろうか?ある意味で、それは慈悲ではないかと思う。
 仏法では、「慈悲を観じて嫉妬を治す」――慈悲を観じて嫉妬を治療する――と説く。
 釈尊時代、「慈悲観」という修行によって、嫉妬、また瞋恚(いかり)を静めようとしたのである。(=「減劫御書」には「瞋恚しんにをば慈悲観をもて治し」と、嫉妬と瞋恚を相通ずるものとして扱われている)
 瞋恚は、いうまでもなく、貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろか)の三毒の一つであり、地獄界の顕れである。「慈悲」を観ずることによつて、初めて嫉妬という″地獄界の炎〔を消し静めることができるとしたのである。
 もちろん今、末法において、そうした修行は必要ないし、そんなことを教えても、火に油を注ぐように逆効果であると、大聖人は仰せである。
 末法においては、御本尊こそ大慈大悲の御本仏の生命の当体であられる。ゆえに、御本尊を持ち、妙法広宣流布へ、自行化他の行動をしている私どもは、いわば「慈悲の修行」をしているといってよい。「慈悲観」も、その実践のなかに自然に含まれているのである。
 ともあれ、私どもは、他の人の幸福を祈り、他の人の不幸に同苦しつつ、正法を弘めている。これに対し、妬みの人は、他の人の幸福に苦しみ、他の人の不幸を喜び、願って生きている。人間として、まったく正反対の生き方なのである。
16  そのうえで、十界互具(十界のそれぞれが、互いに十界を具していること。この場合は、人界にも、地獄界を含む十界が具わっていることを指す)であるゆえに、だれしも、嫉妬という地獄界の炎をもっている。だからこそ、「修行」が必要なのである。
 つねに、他の人の幸と成功を心から望み、喜んでいける――そういう強い人間を、正しい人間を、つくりあげていく。それが信仰である。仏道修行である。
 そのためには、たとえば自分のいちばん気にいらない人、自分のいちばん困っている人、その人のことを真剣に祈ってあげることである。もちろん、悪への妥協がいけないことはいうまでもない。
 また私どもは、事実、後輩のこと、同輩のこと、先輩のことまで、皆、祈っている。思いやっている。こんな慈愛の世界はない。これほど尊く、うるわしい集いもない。(拍手)
 そして、この仏道修行によって、自身の境涯、人格を押し広げ、まさに″大山″のごとき大盤石の生命、きょうの″大空″のごとき晴れやかな大歓喜の人生を、築いていけるのである。この大境涯にこそ、真の「幸福」も躍動している。
 幸福は、決して、″あれがあれば″″環境がこうなれば″手に入るというようなものではない。いずこにあっても、また何があっても、自分らしく、朗らかに、人生を楽しみきっていける自身の″境涯の開花″にこそ、幸福はある。
17  皆さまは、日々、法のため、人のため、社会のために、時には多くの人が休んでいる間も働き、進んでおられる。人類の中にあって、最高に尊い方々であられる。
 皆さまの安穏とご健康、ご長寿を、そしてご活躍を、私は懸命に祈っている。皆さまが安心し、喜びに満ちて歩んでいかれることが、私の最大の願いである。
 最後に、この長野、そして新潟の地に、世々代々にわたる信心後継のすばらしき″父子の流れ″をつくられんことを念願し、祝福のスピーチとしたい。本日は、本当にご苦労さまでした。
 (長野研修道場)

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