Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三十回本部幹部会・茨城県記念総会 信仰は「遊楽の人生」のために

1990.6.20 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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13  そして、大聖人はこの楽徳のたとえをとおして、次のように仰せである。
 「我等衆生は第六天の魔王の相伝の者・地獄・餓鬼・畜生等に押し籠められて気もつかず朝夕獄卒を付けて責むる程に、兎角して法華経に懸り付きぬれば釈迦仏等の十方の仏の御子とせさせ給へば、梵王・帝釈だにも恐れて寄り付かず何にいわんや第六天の魔王をや
 ――われら衆生は第六天の魔王の流れをくむ者である。魔王のために地獄・餓鬼・畜生等の悪道の境涯に押しこめられて息をつぐ間もなく、日夜、獄卒に責めたてられている。だが、何とかして法華経(御本尊)のもとにたどりつけば、釈迦仏など十方の仏が、その人をわが子となさるのであるから、梵王や帝釈でさえも恐れて寄りつかない。まして第六天の魔王は、まったく恐れをなして、御本尊受持の人に手出しはできないのである――。
 「魔王は前には主なりしかども今は敬ひ畏れて、あしうせば法華経・十方の諸仏の御見参にあしうや入らんずらんと恐れ畏て供養をなすなり、何にしても六道の一切衆生をば法華経へ・つけじと・はげむなり
 ――魔王は、衆生が法華経(御本尊)を信受する以前は主(暴君)であったが、御本尊を持った今は、われら衆生を敬い畏れる。もしわれら(仏子)に悪くあたるならば、法華経・十方の諸仏の御見参の折に、自分の立場が悪くなるであろうと思って、仏子を恐れかしこみて供養するのである。また、だからこそ魔王はどんなことをしても六道の一切衆生を法華経(御本尊)につかせまいとして、懸命に邪魔をするのである――と。
 第六天の魔王とは、人の心を操り、自分の思いどおりに支配しようとする魔性の働きである。一切の衆生は、この魔王の働きに左右されて、絶え間ない苦悩の境涯をさまようことになる。
 その悪しき流転をとどめる道は何か。それは、末法の真実の法華経、すなわち御本尊への強き信心しかない。
 御本尊を持ち、広布に邁進する皆さまは、すべてが尊い仏子である。仏の子を、三世十方の仏菩薩、諸天善神が守らないはずがない。その諸仏の威光を恐れて、魔王すら仏子を敬い供養するのである。
 先の楽徳のたとえのように、第六天の魔王に支配される衆生から、魔王にも守られる仏子への境涯の転換――ここに正しき信仰の証があり、醍醐味がある。
 ゆえに、妙法の大道を歩む私どもには、何も恐れるものはない。御本尊の無量無辺の功徳につつまれた皆さまほど、強くすばらしい存在はない。どうか、そのことに深き確信をもって、堂々と勝利の人生を生きぬいていただきたい。
14  この人生を悠々と楽しく
 ところで、私たちは、何のために生まれてきたのか。この人生の大問題について、戸田先生は次のように明快に述べられている。(『戸田城聖全集』第三巻)
 「大宇宙は南無妙法蓮華経であり、また、あなた方も、南無妙法蓮華経の当体でありながら、みなそれぞれ差別のところに生きているのであり、仏です。
 覚えていただきたいことは、なぜ人間に生まれてきたか。簡単なようで、しっくりとしない問題でありますが、あなた方はこの世に遊びにきたのです」と――。
 ″われわれは、この世に遊びにきた″――。もとより、「遊び」といっても、たんなる娯楽などとは根本的に異なる。人生を自在に楽しみ、幸福を満喫しきっていける″境涯″を示されているのである。
 さらに、戸田先生は「遊ばないで、病気をしたり、夫婦げんかをしたり、忙しい、忙しいと目の色を変えていることは、見当が狂っているといえるのであります。
 会社へ行くのも楽しみであり、女房にしかられること、亭主にしかられることも、楽しくならなければならないのであります。遊ぶことの第一は、あまいしるこに、砂糖と塩がなければなりません。塩の程度の苦労がなければ、真のしあわせも感じられないのです。あなた方は、塩のほうが過ぎるのです。
 折伏せよということは、また信心をしっかりすることは、学会、国家のためのように聞こえるが、再往は、あなた方自身のためなのであります」と述べられている。
 「遊楽」――人生、生活の一切が楽しく、つねに「喜び」と「希望」を見いだして、悠々と生きぬいていく。ここに、私どもの信仰の目的がある。また人生の究極の目的、理想がある。
 会合や日々の広布の活動はもちろん、仕事も楽しい、家族や友人との語らいも楽しい。そうなるためにも、たとえば、職場で上司に叱られることがあっても、その指摘を誠実に受けとめればよいのである。へんにしょげかえってしまう必要はない。「ああ、自分を励ましてくれて、ありがたいな」とか、「うちの課長も本当に元気だな」(笑い)と、いい意味でたくましくとらえて、奮起していけばよいのである。
 要するに、″グチ″や″不平″に流されず、つねに現状を″いいほうへ、いいほうへ″、″希望へ、喜びへ″と、とらえていける「強い心」をもつことである。ここに、人生の勝利をもたらす「知恵」がある。また、それを実現していけるのが信心である。
 皆さま方は、あらゆる労苦をも悠々と見おろしながら、堂々たる「遊楽の人生」を歩んでいただきたい。(拍手)
15  最後に、学会創立六十周年を記念し、一つ、提案をしておきたい。それは、全国各地の会館の「管理者」の皆さま、また「守る会」の方々のために、会館、研修道場などの、よき地を選んで記念植樹をしてはどうか、ということである。
 これには創価班、牙城会、白蓮グループ、白樺会(グループ)などの方々も参加されてはどうだろうか。何の木でもよいと思う。日ごろの広布への献身に感謝を込めて、創立六十周年の記念の贈り物とさせていただきたい。(拍手)
 皆さまのご健康、ご多幸を心から念願し、私の本日のスピーチを終わりたい。
 (茨城文化会館)

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