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日蓮大聖人・池田大作

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第二十二回本部幹部会 広布のため行動してこそ真の人材

1989.10.24 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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18  それに関連して、真の「人材」とは何か、「人材」を見る基準は何か、を述べておきたい。
 それは、結論して言えば「信・行・学」があるか、ないかである。社会的地位がある。有名である。人気がある――そんなものは信心とは関係ない。そんなことにとらわれて、人を判断しては絶対にならない。
 あくまでも「信・行・学」が深いか浅いか。「法」のため、「広布」のために、どこまで戦っているかである。もっと具体的にいえば、一人の信仰者、修行者として、現実にどれだけ「折伏・弘教」をしたか。行学に励んでいるか。聖教啓蒙などによって、信心の理解を広げたか。また人々の激励にどこまで行動したか。その「力」こそが、真の広布の人材の「力」なのである。
 根本の「信・行・学」を基準として、そのうえでさまざまな個性や特長を尊重していく。そこに社会的に活躍している人も、すべて生かされていくのである。しかし、才能や学識だけでは、広宣流布はできない。いわゆる″個性的なおもしろさ″だけでも、法は弘まらない。広宣流布は、そんなにかんたんなものではない。
19  また、「人」をうまく動かす人を見て″あの人は力がある″″人材だ″と言う人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく組織や人を動かし、それをもって、広布の″人材″と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、人を人間として見なくなり、組織のうえにあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信心を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。
 ゆえに″人を使う″ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。組織の長の立場にある皆さまは、この点をよくよく心にきざんでいただきたい。(拍手)
 人間を、その人の人間としての実力、人格、内実以外の基準で見ていくのは、根底は「人間」をバカにしていることになる。と同じく、「人材」を「信・行・学」以外の基準を根本として見ていくのは、信心と仏法、さらには学会をバカにする心である。信仰者として、これは許されることではない。
 次元は異なるが、先日(十月十二日、第十一回関西総会)もお話ししたように、吉田松陰は「忠義の人」と「功業の人」を峻別した。これも″どうあるか″つまり、どう革命の大義に殉ずるかと、″どう見えるか″つまり、功業(手柄)を得てどう革命のなかで評価されるか、との一念の違いを、鋭くとらえ、叫んだのではないだろうか。この「一念」の違いは、小さいようで、あまりに大きい。
20  ともあれ、″いつか広布の時がくるだろう″と、時を待つ臆病の人であってはならない。「時」はつくらなければならない。「時」はみずからつくるものである。時代の「変化」に応じ、「変化」についていくだけでは足りない。時代に負けないで、時代の新しき「変化」をつくりだしていく。この人こそ広布の大人材であると、私は申し上げたい。(拍手)
 最後に、皆さま方の、ますますのご活躍とご健康、ご多幸をお祈りして、本日のスピーチを終わらせていただく。
 (創価文化会館)

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