Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回SGI欧州総会 平和の剣で使命の舞を

1989.5.28 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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11  現実の社会で降伏の大境涯を
 大聖人は「御義口伝」にこう仰せである。
 「我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るはしかしながら四徳の香を吹くなり」──われわれが生老病死という人生の苦しみに際して南無妙法蓮華経と唱えていくならば、妙法に荘厳された生命となり、「常」「楽」「我」「浄」の四徳のふくよかな芳香ほうこうを漂わせることができる──。
 四徳とは、人間として最高の境地であり、絶対的な自由、幸福を表示している。
 「我」は、「真実の自己」つまり「大我」が享受きょうじゅする宇宙大の自由の境涯といってよい。
 「常」とは、不断に革新しゆく生の躍動であり、あらゆる行き詰まりを打破していく生命の創造的な進化ともいえる。
 また「浄」とは、大いなる生命の力の奔流ほんりゅうによって、小我による狭いエゴイズムの汚濁を浄化する働きである。
 そして「楽」とは、瞬間瞬間、ダイナミックに律動する生命の歓喜であり、周囲の人々にも喜びを与えゆく円満なる人格にも通ずる。
 こうして妙法に照らされた人格は、宇宙大の自由をはらむ「大我」の境地に立脚して、「小我」のエゴイスティックな方向に凝集ぎょうしゅうしていた欲望のエネルギー(煩悩ぼんのう)をも質的に転換していく。つまり、煩悩のエネルギーをも輝ける英知と慈悲へ昇華しつつ、他者や共同体、社会など、個人を超えた次元へと力強く立ち向かっていくのである。
 ここに「煩悩即菩提」の法理があり、「理想社会の建設」に取り組みながら、自他ともに真実の「人間完成」を目指しゆく道が、広々と、また晴れ晴れと開かれている。
12  「幸福」は何によって決まるか。これが人生の根本問題である。
 結論的にいえば、幸福の最も重要な要素、それは自分自身の内なる「境涯」である。
 大いなる境涯の人は幸福である。広々とした心で、毎日を生き抜いていける。強き境涯の人は幸せである。苦しみにも負けることなく、悠々と一生を楽しんでいける。
 深き境涯の人は幸せである。人生の深き味わいをかみしめながら、永遠にも通じゆく有意義な価値の歴史をつくりゆくことができる。
 清らかな境涯の人は幸せである。その人の周りには、つねにさわやかな喜びが広がっていく。
 たとえ物質や地位等の面で恵まれていたとしても、「不幸」を実感している人は数限りなくいる。また、そうした環境は、つねに変化し、いつまで良き状態が続くかわからない。
 しかし、確立された自身の「幸福の境涯」は、だれびともこわすことはできない。何ものも侵すことすらできない。こうした、生命の大境涯の建設に、仏道修行の目的もある。
 ともあれ、何があっても御本尊から離れてはいけない。信心の歩みを止めてはいけない。
 人生の途上には、さまざまな苦難がある。行き詰まりもある。その時にこそ信心の心を強め、唱題に励んでいただきたい。宿命の山を登りきると、それまでは辛くとも、次は視界がパーッと広がっていくものである。信心は、その繰り返しのようなものである。その究極として永遠に崩れない絶対的幸福境涯につながる。
 ともかく、信心の根を、強く、深く、張っておくことだ。根さえ張っておれば、養分が与えられない時があったとしても、太陽の光が輝き、水分が与えられれば、必ず次第次第に大樹へと育っていく。信心と人生の歩みもまた同じである。どうか皆さま方は、この厳しき現実社会の中で、″真実の仏教″の証明者として、幸福の大光を朗らかに広げゆく勇者であっていただきたい。
13  私どもは最高の″慈悲の剣″を抱いた。戸田先生は言われた。
 「慈悲ほど強いものは世にないのである。絶対の慈悲のうえにたって、衆生を化導けどうせらるる仏に対しては、慈悲にあまえるというより、われわれは慈悲の強さにおそれをなすのが、いつわりのない事実であり、真のすがたである」
 そして私どもも、「その行動の奥に深い深い慈悲の心を蔵するならば、その行動は、説明もなく、証明する者がなくとも、相手にいっさいが必ず通ずるものである」(『戸田城聖全集 第三巻』)と。
 どうかこの″慈悲の剣″を胸に、現実の人間群の真っただ中で、勇敢に、また自在に乱舞していただきたい。そしてうるわしい同志の絆をさらに強め、また広げつつ、なかんずく青年を最大にいつくしみ、はぐくんでいっていただきたい。
 最後に、「我が愛するヨーロッパの友よ、素晴らしき使命の舞を自在に舞いゆけ」と、心から念願し、私の記念のスピーチとさせていただく。

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