Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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港、目黒、渋谷区合同支部長会 世界に開く先駆の道を

1988.9.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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9  それにしても、大聖人が、こまやかに人情の機微をとらえられ、最大の真心で門下を激励されている御姿に、私は心打たれる。愛する同志、後輩のために、一人一人の心の綾をたんねんにたどり、踏まえながら、どこまでも尽くし、守りぬいていく──この強靱にして慈愛豊かな人間性にこそ、仏法の精髄があることを知らねばならない。
 戸田先生は、よく言われていた。──一次元からいえば、「慈悲」があるということは、即「智慧」につながっていく。真の「慈悲」の人は、あの人のためにどうすべきか、どうしてあげたらいいかと、つねに心をくだきにくだいている。ゆえに、だれも気にとめないようなところにも気がつき、うっかり見過ごしてしまうようなところまで、自然に見えてくるものだ──と。
 所詮、「智慧」といっても、なにも特別な「力」や「才」がなければ得られないというものではない。広布へのめども尽きぬ信心の深さがあれば、しだいに心からの思いやりとか、心くばりがそなわっていくものである。
 しかも「智慧」は、単なる「知識」ではない。「知識」を生かし、活用していく源泉が「智慧」である。いかに「知識」があっても、″慈悲なきインテリ″″冷酷な知識人″であっては、ほんとうの「智慧」はわいてこないし、「知識」のみでは、生きゆく力も、幸せの価値も生み出せないであろう。「慈悲」こそ、真の「智慧」の源泉であり、「信仰」の根幹である。
10  「進まざるは退転」の心意気で
 人も社会も、時とともにうつろい、変化していく。しかし、仏法は、いかに時代が変わろうとも、いささかも変わらぬ常住・不変の法である。ゆえに、仏法をたもった私どもは、どんなことが起ころうとも、だれにどういわれようとも、紛動されることはないし、動じることもない。悠々と、堂々と生きぬいていくことだ。
 ともあれ「進まざるは退転」の精神を胸に、大聖人に賛嘆されるよう、ともどもに凛々しき前進を続けていきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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