Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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港、目黒、渋谷区合同支部長会 世界に開く先駆の道を

1988.9.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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8  「慈悲」こそ真の「智」の源泉
 さて、まもなく「敬老の日」を迎える。そこで、「敬老」の意義をこめ、「富木殿御返事」の一節を拝読しておきたい。
 文永十二年(一二七五年)二月、富木常忍は大聖人にかたびらを御供養申し上げた。帷とは、もともと″片ひら″(片一方の意)という意味の言葉で、裏地のない一重の衣類のことである。
 それに対して、大聖人は、御礼の御手紙をしたためられ、次のように仰せである。
 「此れは又齢九旬にいたれる悲母の愛子にこれをまいらせさせ給える我と両眼をしぼり身命を尽くせり」──これはまた、年齢が九十になっている悲母が、愛子であるあなた(富木殿)にさし上げられたものである。自ら両眼を無理し、身命を尽くして作られたのであろう──。
 「我が子の身として此の帷の恩かたしと・をぼして・つかわせるか」──富木殿は、子の身として、この帷の恩は報じがたいと思って、私(大聖人)のもとによこされたのであろうか──。
 「日蓮又ほうじがたし、しかれども又返すべきにあらず」──日蓮もまた、その恩は報じがたい。しかし、かといって、返すべきではあるまい──。
 「此の帷をきて日天の御前にして此の子細を申し上げば定めて釈梵諸天しろしめすべし、帷は一なれども十方の諸天此れをしり給うべし」──この帷を着て、日天の前で、この詳しいいきさつを申し上げれば、きっと帝釈・梵天・諸天善神も知られることであろう。帷は一つであっても、十方世界のあらゆる諸天善神が、このことを知られるであろう──。
 「露を大海によせ土を大地に加るがごとし生生に失せじ世世にちざらむかし」──それは露を大海に入れ、土を大地に加えるようなものである。生々に失われないし、世々に朽ちないであろう──と。
 少々、長い引用となったが、御文に仰せの通り、このとき母は九十歳。ちょうど、亡くなる一年前のことであった。子の常忍も六十歳ぐらいであったと推測される。何歳になっても、母は母である。老母は、すでに手もともおぼつかなかったろうに、愛するわが子のために手ずから帷を縫った。あまりにも深く尊い、母の慈愛である。
 一針一針に愛情をこめ、縫いあげられた真心の帷──さぞやすばらしいものであったにちがいない。それを目にした常忍は、自分が着るより、まず、だれよりもお慕い申し上げる師・大聖人に着していただきたいと強く感じたのであろう。そこで、母にも相談しながら、あえて御供養申し上げたと推察できる。
 一枚の衣に仕立てられた「心」と「心」のドラマ──大聖人は、すべてを、御存じであられた。
 とくに、九十歳になっても子のためには労を惜しまぬ母の姿に、深く感銘を受けておられたと拝される。その尊い母の恩は「日蓮又ほうじがたし」とまで仰せになっている。
 そして「この帷を着て、日天の前で、くわしい経緯を申し上げよう。そうすれば、あらゆる諸天善神が母子の麗しい真心を知り、三世にわたり、二人を守っていくでしょう。それは永遠に変わることがないのである」と励まされている。御本仏の、まさに宇宙大の御境界と、広大無辺の大慈大悲を拝さずにはいられない。
9  それにしても、大聖人が、こまやかに人情の機微をとらえられ、最大の真心で門下を激励されている御姿に、私は心打たれる。愛する同志、後輩のために、一人一人の心の綾をたんねんにたどり、踏まえながら、どこまでも尽くし、守りぬいていく──この強靱にして慈愛豊かな人間性にこそ、仏法の精髄があることを知らねばならない。
 戸田先生は、よく言われていた。──一次元からいえば、「慈悲」があるということは、即「智慧」につながっていく。真の「慈悲」の人は、あの人のためにどうすべきか、どうしてあげたらいいかと、つねに心をくだきにくだいている。ゆえに、だれも気にとめないようなところにも気がつき、うっかり見過ごしてしまうようなところまで、自然に見えてくるものだ──と。
 所詮、「智慧」といっても、なにも特別な「力」や「才」がなければ得られないというものではない。広布へのめども尽きぬ信心の深さがあれば、しだいに心からの思いやりとか、心くばりがそなわっていくものである。
 しかも「智慧」は、単なる「知識」ではない。「知識」を生かし、活用していく源泉が「智慧」である。いかに「知識」があっても、″慈悲なきインテリ″″冷酷な知識人″であっては、ほんとうの「智慧」はわいてこないし、「知識」のみでは、生きゆく力も、幸せの価値も生み出せないであろう。「慈悲」こそ、真の「智慧」の源泉であり、「信仰」の根幹である。
10  「進まざるは退転」の心意気で
 人も社会も、時とともにうつろい、変化していく。しかし、仏法は、いかに時代が変わろうとも、いささかも変わらぬ常住・不変の法である。ゆえに、仏法をたもった私どもは、どんなことが起ころうとも、だれにどういわれようとも、紛動されることはないし、動じることもない。悠々と、堂々と生きぬいていくことだ。
 ともあれ「進まざるは退転」の精神を胸に、大聖人に賛嘆されるよう、ともどもに凛々しき前進を続けていきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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