Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄青年部代表者研修会 限りある人生を悔いなく

1988.2.19 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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21  そのうえで大聖人は、幕府の御家人であり、地頭を務める時光の社会的立場を思いやられ、続けて次のように仰せである。
 「ただし・ないない内内は法華経をあだませ給うにては候へども・うへには・の事によせて事かづけ・にくまるるかのゆへに・あつわら熱原のものに事をよせて・かしこ彼処ここ此処をもかれ候こそ候いめれ、さればとて上に事をよせて・かれ候はんに御もちゐ候はずは物をぼへぬ人に・ならせ給うべし」――ただし国主等は、内々は法華経を怨敵としていても、表面には他の事にかこつけて憎み、非を鳴らしてくるのが常であるから、熱原の者にことよせて、ここかしこと邪魔されるでしょう。そうかといって、国主等の意向として命令を受けていながら反抗して従わなければ、あなたは物を弁えぬ愚迷の人となってしまうであろう――と。
 ここで大聖人は、いつの世も変わらぬ権力者による正法弾圧の構図を、まず明快に示されている。心のなかの憎悪や嫉妬しっとはひた隠しに隠しながら、その醜悪な感情を、別次元のことにすりかえ、迫害していく――こうした巧妙なやり方は、時代を超えて、つねに同一の方程式である。
 しかし大聖人は、そのあとで、時光に対し、いかなる場合にも、社会の道理と動向を弁えた賢明な判断、堅実な行動がたいせつであることを強調されている。一時の感情に動かされた、子供じみた世間知らずの振る舞いは、信仰者として絶対に慎むべきであると厳に戒められている。
 社会の道理は道理であり、ルールはルールである。世間の法は遵守じゅんしゅすべきであり、信仰者が社会のルールを破るようなことは、決してあってはならない。また、非常識な活動を進め、同志や後輩に、無理をさせてはならない。あくまで、良識豊かな行動と実践が大切であるとの大聖人の御指南と拝する。
22  さらに大聖人は、次のように述べられる。「かせ給いて・しかりぬべきやうにて候わば・しばらく・かうぬし神主等をば・れへとをほせ候べし、めこ妻子なんどはそれに候とも・よも御たづねは候はじ、事のしづまるまで・それに・をかせ給いて候わば・よろしく候いなんと・をぼへ候」――もしも、神主等を置いていることがあなたにとってまずいようであれば、しばらくこちら(身延の大聖人のところ)へ来るよう、彼らに言ってください。ただ神主の妻子などは、そちらに置かれていても、決して捜されるようなことはないでしょう。事が静まるまで、そちらに置いていただければ、と思います――。
 まことにこまやかな、大聖人の心遣いであられる。社会の状況を的確に踏まえ、一人一人の立場や境遇をこまやかに配慮されつつ、今後の在り方を示されている。そのうえで、自らタテとなり、門下を厳護されている。まさに御本仏の大慈大悲の御振る舞いであると拝せよう。
 事実、こうした大聖人の心配りと激励を受け、広大無辺の大慈悲に守られながら時光も、神主も見事に難を乗り越え、信心を全うすることができたのである。
 もとより次元は異なるが、私ども広布のリーダーもまた、尊き仏子を厳然と守り抜いていかねばならない。それが妙法の指導者の第一の責務であり、使命である。
 それは、口先だけの指導でできることではない。現実に苦悩し、救いを求めている友は数多い。しかし、理屈をいうのはたやすいが、それで悩める友を救うことは、決してできない。本当の広布の戦いは、そんな安易なものではない。
 泥沼のごとき現実社会のただ中にあって、民衆とともに懸命に動き、祈り、心を砕きに砕いてこそ、リーダーは、真実の広布の大道を開き、その責務を果たすことができるのである。皆さま方の先輩は皆、それを行動してきた方々である。ゆえに今日の広布の盤石な基盤ができたことを決して忘れてはならない。
23  大聖人は、次のようにも仰せである。「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」――一切のことは、国により時による。仏法を行ずる者は、この道理をわきまえていくべきである――と。
 今回の東南アジア歴訪に際しても、私は、この点に最も留意しながら、行動し、対話してきた。会員の皆さま方が安心して活動に励めるよう、力を尽くし、最大に心を配ってきたつもりである。また、これまでの歩みにおいても、すべて同様であった。
 この四十年間、あらゆる人々が幸の大道を歩み、国土も、時代も、未来も限りなき繁栄へと開けていくよう、御聖訓のままに、私は心を尽くしに尽くし、走りに走ってきたつもりである。私のこの「心」を、最も大切な青年部の門下に、確かに託し、本日のスピーチとしたい。

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