Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回本部幹部会 大いなる理想に生涯を貫け

1988.1.20 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
14  さて、御書の「三沢抄みさわしょう」といえば、いわゆる″佐前佐後さぜんさご″すなわち佐渡流罪以前の法門は、″仏の爾前経にぜんきょう″のようなものであると示された御抄として有名である。
 大聖人は、その御心境の一端を「去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をわざりけるとをもうて・さど佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり」と仰せになっている。
 ――去る文永八年(一二七一年)九月十二日の夜、竜の口において、くびをはねられようとした時から後は、「かわいそうなことだ。私についてきた人達に、これまで本当のことを言わないできた」と思って、佐渡の国に渡って以来、弟子達に内内に言ってきた法門がある――との御心である。
 すなわち竜の口・佐渡という大難の後、大聖人はその晩年におかれてこそ、真実の御法門を明かし始められたのである。私ども末法の一切衆生のための、その戦いは、御入滅に至る一日一日、いささかもたゆまれることがなかった。
 身延への御入山についても、決して世間でイメージする″隠栖いんせい″などではあられなかった。
 「三沢抄」の中で、大聖人は御入山に当たっての泰然自若たいぜんじじゃくたる御心境を、こう述べられている。
 「いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此の山林には栖み候なり
 すなわち――いかなる大難にも耐えようと、我が身に当ててこころみた結果、すべて経文通りである。もはや何の疑問もなくなった。法華経を、ことごとく色読し、法華経の正しさも、御自身が末法の法華経の行者であられることについても一点の疑いもない。ゆえに、今はこうして身延の山林に住んでいるのである――との仰せと拝する。
 身延での八年余りの年月、大聖人は正法弘通のため、令法久住りょうぼうくじゅうのために心血を注いでおられる。弟子の育成、門下の激励等も、いよいよ本格的となった。決して、いわゆる隠遁いんとんや、まして引退ではあられなかった。最後の最後まで末法広宣流布への激闘の連続であられた。
 ちなみに身延期に大聖人がしたためられた御書の数は、数え方は様々あるが、現在残されているものだけでも、長短あわせて三百編を超えている。単純に計算しても、一カ月平均三編近くの御書を著されたことになる。
 御高齢、御病気、そして厳しい自然環境、内外の多難等、どの状況を考え合わせてみても、これだけの数多い御指南、激励を続けられた事実は、なみたいていのことではない。その大慈悲と烈々たる気迫を拝する時、何と尊い御本仏の御境界であられるかと、限りなき感動を覚える。
15  私どもは大聖人のほまれの信者であり、門下である。もとより次元は異なるが、大聖人が身をもって示してくださっているとおり、使命の人生の最後の最後まで、広宣流布と一生成仏への歩みを止めてはならない。
 戸田先生も、そうであられた。私もまた、その決意である。
 昭和六十年十一月、約十日間の入院から、私は退院した。以来、これまでに、長いものだけで約百二十回に及ぶ指導・講演を行った。ただただ「広布のため」、「後世のために」との一念からである。
 五十八歳の時(六十一年)、約七十回。五十九歳の時(六十二年)、約四十五回。平均すると月に約五回の割合で行ってきたことになる。一回一回、真剣に、命をけずっての指導であったつもりである。これからも、さらに思索しさくし、さらに幅広く、言うべきことは、すべて、きちんと言いのこしておく決心をしている。
16  今月下旬より約二十日間、東南アジア三カ国二地域を訪問する予定になっている。文化・教育の交流のため、また平和と広宣の大道が開けることを祈りつつ、価値ある訪問にしたいと願っている。
 留守るすの間も、秋谷会長を中心に、万事よろしくお願いしたい。また事故なく、大成功できますよう、お題目を送ってくだされば幸いである。
 帰りは二月中旬、まっすぐに沖縄へまいりたい。五年ぶりの訪問であり、沖縄広布三十五周年の佳節を、ともどもにお祝いし、全魂を打ちこんで激励させていただきたいと思っている。このように、南の方から、輝く本年のスタートを切っていく決意であることを申し上げ、皆さまのどこまでも朗らかな、また朗らかな前進を祈りつつ、本日のスピーチとさせていただく。

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