Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第十章 日伯交流の原点を築く
「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)
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大切なのは「サウデ(健康)」
池田
児玉さんにとって今、いちばん大切なものは、何でしょうか。
児玉
自分にとっていちばん大事なのはサウデ(健康)ですね。健康であれば、ゲートボールをやれるし(笑い)、バスでサンパウロへ行って、家族に会えます。
池田
いいですね。
児玉
人間にとって、最大の財産は健康であることです。健康であれば、人間は何でもやりきる力を持っていると思います。
池田
九十歳を過ぎて、ゲートボールを始められた。朝、まっ先に練習所に行って、練習されたとうかがいましたね。
児玉
まあ、後から来て、「児玉さんは早いね」と言って、休んでいる方もおられました。(爆笑)
池田
やるからには一番を。(笑い)
児玉
いえいえ。入ったばかりで、インチキになってはね。
また新しい友人とか、多くの人と話ができますからね。心身ともに健康になるんではないですか。
池田
人と会い、語りあうことは健康にもいいわけですね。九十三年間の人生で、ちょっと残念に思ったことなどはありますか。
児玉
残念に思ったのは、とにかくいい仕事を世話してもらえる機会があっても、自分の努力が足りないので、できなかったことです。
それ相当のいい仕事を与えてもらったけどね。全部、旧い知りあいがいたからだと思います。ま、子どもだったから、それでね、仕事にかかるのが遅すぎた。
もっと自分の力があればもう少しよかったかとも思いますね。すべてに、努力、それと勇気がなかったもんだから。
池田
謙虚なお言葉です。しかし冷静にご自分を見る眼をもっておられる。
「もし、ブラジルに来なかったら」ということを考えたことはありますか。
児玉
そういうことは一度も考えたことはありません。なんとかこのブラジルを一日も早く好きになって、生活ができるようにならなきゃ、と。生きることに必死なんですから。それだけでした。
池田
ここが自分の生きるところだと決めると力がでますね。仕事でも何でも同じです。ところでほかに訪問してみたい国はありますか。
児玉
あんまりありませんがね。とにかく、ブラジルに来てから仕事を始めて、苦しいばかりで、そんなことは思う余裕もなくて。ただ、当時はアルゼンチンは評判よかったから、皆さんから「ブラジルは思わしくないから、アルゼンチンに行こうじゃないか」と勧められたのだけど。
まあ今は、とくに理由はないんですけど、スペインとかイタリアなどへ行ってみたいですね。
池田
そうですか。日本にも、ぜひもう一度いらしてください。
児玉
ありがたいお言葉です。
池田
児玉さんは、飛行機と船の旅ではどちらが好きですか。
児玉
好きなのは飛行機。速いから(笑い)。楽しんでいくならば船のほう。贅沢な気分になれるし(笑い)、いろいろな港に上陸できるからね。
私は知らないところに出ても、ちゃんと目標を立てて動くんですよね。町でも、どこへ行くか考えて歩くんです。
池田
はあー、歩く心構えが違う、と(笑い)。ブラジル移住の歴史を綴った国々の中でも、日本からの移住者に成功した人が多いと言われます。それはどういう理由からだと思いますか。
児玉
日本が戦争に負けたことが大きかったんではないですか。
戦争に負けたので、日本移民の人たちは、ブラジルに永住する気持ちを固めたんです。日本に帰ってもたいへんな状況が待っているだけですし。それで、腹を決めて仕事や子どもの教育に力を入れました。
池田
敗戦国・日本は、国土の復興に精いっぱいで、海外移住者の人々を“置き去り”の状態にしてしまった。“棄民”とも言われた。
祖国に見放された心境が、どんなものであったか。それは、味わった人でなければわからない。しかし、そのなかから皆さんは、たがいに助けあい、信頼を勝ち得、今日の繁栄を築かれた。
日本はこの歴史を忘れてはならないと思います。
2
“人種のルツボ”で
池田
ブラジルには、日系以外の移住者も多いですね。やはり祖国の伝統・習慣を守っていますか。
児玉
サンパウロの大都市のなかにはイタリア人、ポルトガル人、ドイツ人の地域などがあります。日本人もそうですけど、みんな祖国の伝統や習慣を守っています。
池田
かつて「ブラジルは、世界中の民衆が集まって“人種のルツボ”のなかで煮えたぎっている最中だ。真の“ブラジル人”が形成されるのは、まだ一、二世紀先のことだろう」と、言った人がいました。
児玉
私はむずかしいことはよく知りませんが、たしかに、そういう感じですねえ。
池田
つい先ごろ亡くなった、お国の著名な社会学者ジルベルト・フレイレ(一九〇〇年―八七年)も「人種デモクラシー(民主主義)」という表現で、多様な人種や民族の調和・融合こそ、ブラジル社会の最大の美点であると説きました。
そして彼は、人種差別の思想を追放することに貢献しようとしたのです。
児玉
へえ。それは知りませんでした。
池田
リオデジャネイロの諺に、「ブラジルは未来の国である。そして、いついつまでも、つねにそうだろう」と。
二十一世紀に向けて、お国は、まさに「世界市民の時代」の縮図として、限りない可能性をはらんでいると思います。
児玉
ああ、それは本当にうれしいことです。
池田
ブラジルの自然では、どんなところが好きですか。
児玉
何でも好きです。とくに山とか地方がいいですね。だから私は地方に住んでるんです。サンパウロに昔、住みましたが、まだ今のような大きい都市ではありませんでした。田舎のような時代のときです。
3
「日光と人生」
池田
日本もだんだん都会を離れて住む人が増えています。空気も澄んでいるし、人も親切ですからね。
初代の牧口常三郎会長の著書『人生地理学』のなかに「日光と人生」という文章があります。
――たとえば、旭日のきらめき、夕陽の輝き、そうした美的な光景の影響は浩大である。だとすれば、日光の降り注ぐ分量が、人類社会の発達にどれほど大きく影響するかということも、わかろうというものである――と(『牧口常三郎全集』第一巻、第三文明社。趣意)。
ブラジル人の大らかで魅力的な人柄も、“太陽とともに”生きるなかで培われてきたのではないでしょうか。
児玉
私らは、日の出る前から沈むまで外で働いてましたからねえ。日本もブラジルも太陽は変わりないと思いますが。
池田
いや、そうですか。私には、ブラジルは太陽が大きいのではないかと思えるんです(爆笑)。それほど、ブラジルの私の友人の方たちはいい人が多いんですよ。
児玉
まあ、昔の私のときは、人が正直でしたよね。今はそうではないですね。当時のブラジル人も正直でした。
池田
今、ブラジルの親しい友人は……。
児玉
高齢になってきますと、今までの友人はほとんど亡くなっています。親しい友人というのは自分が悩んでいるときにわかりますよね。本当の友人は、その悩みを自分の悩みのように受けて、解決の協力をしてくれますから。
池田
平坦でない道だったからこそ、そうしたすばらしい友人との出会い、感動があったのではないでしょうか。それは道を拓いた人でないとわからない。
児玉
現在では、日本人がいないというところはないですね。とくにサンパウロでは、本当に日本人をよく見かけます。まるっきり変わりました。
時代が変わったということでしょうか。多くの人から「このサンパウロは日本語が中心ですか」(笑い)と聞かれるんです。私も不思議に思うことがある。私が来た時分なんか、言葉はわからなかったから。
池田
ほんの一例かもしれませんが、サンパウロには日本食のレストランが二百軒以上もあって、たいへんに繁盛しているとか。
でも児玉さんの少年時代には、一つ一つポルトガル語を覚えていったというお話もうかがいました。何とか心を通わせたい、理解しあいたい――そうした努力が実を結んで、今日の日伯交流の原点が築かれた。
児玉
なんせね、その当時は日本人がいないんですからね。それに、たとえいても、どこへ行ったって日本人は雇われ人ですから。一生懸命、仕事しているから、話したりするようなことは、ぜんぜんできなかった。
まあ皆さん、そういうことを聞いて不思議に思っておられるがね。そういうことを息子たちに話しているんです。
池田
ブラジルは南米で唯一“ポルトガル語を話す国”ですね。くわしくはわかりませんが、ポルトガル語と日本語では、よく似た面がある、と。
児玉
ほう、そうですか。
池田
たとえば、ことわりの返事をするときにも、相手を気づかって、「ノー」とあまりはっきりは言わない。
「それはむずかしい」「よく考えてみましょう」と答える。(笑い)
日本もブラジルも、これが「ノー」の別な表現になる。(笑い)
4
ポルトガル語辞典の刊行
池田
ポルトガル語と日本語の『葡和辞典』をつくったのは大武和三郎という人だそうです。一九一八年(大正七年)の刊行で、この人もずいぶん苦労したようです。
ブラジルに渡ったのは、十八歳の時。ブラジル王国の海軍船が横浜に来て、乗っていた国王の孫に認められ、ブラジルで勉強しないかと勧められる。そして明治二十三年(一八九〇年)から七年間、ブラジルでポルトガル語を学ぶことになりました。
児玉
私らがブラジルに来る、二十年ぐらい前ですね。
池田
両国語を仲介するものは何もない時代です。
彼は帰国後は政府の通訳なども務めた人物であった。ところが、初めから試練の旅の連続となった。まずブラジルへ向かう途中、頼りにしていた国王の孫が、革命のためにインド洋の島に降ろされる。何とか艦長に頼みこんで、ブラジルにたどり着く。しかし今度はその艦長が政府に対して革命軍を起こし、それが失敗したために、通っていた兵学校も退学に追いこまれてしまった――。
児玉
ポルトガル語が話せないという辛さは、今でも忘れられません。私らは生きるためにも、ポルトガル語を覚えなくちゃならなかった。
池田
この人の辞典の編纂も、途中、ブラジル憲法の改正があって、公式の綴り方が二転、三転し、何度も原稿を書きかえたり、大使館から自宅に原稿を
持ち帰ったその直後に大使館が火事になり、危うく灰になるところを助かったこともあった。
大辞典の刊行は十年にわたる事業となり、完成したのは彼が六十六歳の時だったといいます。
児玉
ほう。
池田
この人がブラジルの地で学んだのも、十代後半から二十代半ばの多感な時でした。やはり若さは何ものにも勝る力です。
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