Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第八章 繰り返すまい戦争の惨禍
「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)
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第二次世界大戦の勃発
池田
児玉さんが生きぬいてこられた二十世紀は、人類が二度の世界大戦を経験した「戦争の世紀」でもありました。この間、日本とブラジルが敵国の関係になるなど、日系人の方々はご苦労されたとうかがっています。
そこで、戦時中のブラジルの様子や、児玉さんご一家の生活について、少々うかがえればと思います。思い出す範囲で結構ですので、よろしくお願いします。
児玉
わかりました。
池田
ブラジル移民の歴史を振り返ると、第一次世界大戦(一九一四年―一八年)の後は、欧州各国からの移住が途絶えて、国内労働力が不足した。そのため日本からの移住が大いに奨励されて、これによって、年間一万人以上もの人たちがブラジルに渡りました。まさに全盛期でしたね。
しかし、一九二七年(昭和二年)のコーヒー恐慌による経済不況、また一九三〇年(昭和五年)の革命などの影響があって、移住の数が極端に制限されました。
そのころは、全盛期の四分の一ぐらい。第二次世界大戦の時期になると、一九四〇年(昭和十五年)前後には年間一千人程度に激減し、四二年からは移住の空白期に入ってしまったと聞いています。
児玉
そうでした。しばらくは移住もなかなか成功せず、たいへんな時期が続きました。私らもたいへんでしたが、あとから来た人たちも、ずいぶん苦労したようです。
池田
第二次大戦が始まったころ、私はまだ小学生でした。一九四一年十二月、日本では、「真珠湾攻撃」のニュースが国中に流れました。私は当時、新聞配達をしていて、真珠湾攻撃を報ずる新聞を配りながら、時代の異様な興奮を子ども心にも感じました。
この時期、児玉さんたち移住者の方々も、地球の反対側で激動の時を迎えていたわけですね。児玉さんは、第二次大戦の時には、どこにお住まいでしたか。
児玉
今いるプレジデンテ・プルデンテです。ここに土地を持っていて、運搬の仕事をやっていました。
池田
独立して、ようやくお仕事が軌道に乗りはじめたころでしょうか。
ブラジルは当初、戦争に対して中立の態度をとっていましたが、やがて連合国側につきましたね。一九四二年には枢軸国との国交断絶を宣言。そして長年にわたる日伯国交の道も閉ざされてしまいました。
これによって、日本人移住者の方々は“敵国のなかで暮らす”という格好になった。
児玉
そう。ブラジルと日本が敵国になったというてね。
池田
伝えられるところによると、日本人移住者に対して立ち退き命令が出され、家宅捜索まで行われた。また、日本語の書籍は没収され、新聞・雑誌の発行や集会も禁止。さらに邦人が経営する学校も閉鎖される。地元の新聞も、日本人を犯人扱いする事件の記事をあえて載せていたといいます。
そんななかでの生活は、さまざまな変化があったと思いますが……。
児玉
ええ。仕事も主に日本人相手でしたから、戦争が進むうちに、なかなか思うようにいかなくなりましたね。サンパウロなどでは、日本人が二、三人でも集まっていれば逮捕されたり、日本語を話していたというだけで捕まったり……。
でも、プルデンテでは市長さんが日本人に理解があってね。私は幸い、そんな目にはあわなかったけれども、仕事をとられたりして差し障りがあったことは確かです。
池田
そうした苦渋に耐えながら、移住者の方々はやはり、日本が勝つことを信じていたとうかがいました。
ある意味で、そう信ずるしか、自分を支えるすべがなかった……。
児玉
そういう気持ちはありました。皆、不安でしたからね。日本とブラジルの仲が悪くなって、どうなってしまうのかな、と。
池田
ブラジル各紙が連合国側の優勢を報道する一方で、東京のラジオ放送が流す日本有利の報も伝わってくる。しかし、終戦とともに入ってきたのは“日本敗戦”の知らせでした。
ある人は「日本が負けるはずがない。まったくのデマだ」と否定し、ある人は「真実を受けいれるべきだ」と肯定し……。
児玉
ええ、プルデンテでもありましたよね。日本人同士の争いごとがね。
池田
サンパウロ近辺ではテロ活動が絶えず、相当の犠牲者が出る。
また、日本に関するいろんな情報が飛びかったり、混乱が続いたようですね。
児玉
戦争が終わって妹から手紙が来ました。
手紙が来ること自体、目立ちますから、「児玉さん、どんなふうですか。何か変わったこと書いてないですか」と、みんなが寄ってくる。
じつは敗戦のことが書いてあるんだけれども、「いや、きっと戦争のことを書くのは禁じられているんでしょう。そんなことは何も書いてないですよ」と答えていました。終戦のあと、しばらくはそんな状態でした。
池田
皆さんの気持ちを察して……。児玉さんもさぞかし苦しまれたことでしょう。そうすると、広島・長崎に原爆が落とされたのは、いつ知りましたか。
児玉
ボンバー(爆弾)が落とされたことは聞いていましたが、初めは何のことかよくわからなかった。
それがどんなものか知ったのは、ブラジルではずっとあとになってからです。
池田
いや、日本でも、投下されたことを多くの人が聞いたのは、終戦後のことです。
2
笑顔は、人の心を結ぶ
池田
それにしても、児玉さん、お元気ですね。本当にいい笑顔をされている。“笑顔は、人の心を結ぶ。人類の謎を解く合い鍵である”といった作家がいました。児玉さんのお顔には、人生の風雪を越えきたった輝きがありますね。ところで、今、お子さんたちはどちらにいらっしゃいますか。
児玉
長男と長女はサンパウロ、それ以外は全部、プレジデンテ・プルデンテに住んでいます。
池田
古い話になりますが、最初のお子さんが生まれた時のことは、今も覚えてますか。(笑い)
児玉
だれでも同じだと思いますけど、やはりうれしかったですねえ。何だか不思議な感じがしましたよね(笑い)。女房も喜んだ。生まれる前は男の子がほしかったんですが、女でした。でもうれしかった。
池田
お子さんの名前は、ご自分でつけられたんですか。
児玉
最初の二人、マリアとハウーは、生まれた病院のお医者さんと看護婦さんにつけてもらいました。あとは私がつけたのと、友人につけてもらったのがいます。
とにかく家計も苦しかったし、子どもがあまり多いと悩みますね。七人は多かったかなあと(笑い)。まあ、当時は大所帯で、十一人なんていう家庭もざらにありましたが。(笑い)
池田
そうそう。昔は大家族だった。(笑い)
児玉
やはり、学校を出させるのがたいへんでした。ピタンゲーラにいた時分、子どもの入学式があっても、足代がなくて、牧場ばかりの田舎から町まで、子どもの手をひいて延々と歩いたりね。まともに学校を出せなかった子もいました。
病気でもしようもんなら、それこそたいへん。薬代で給料の大半を使っちゃったこともあった。子どもが多いと、家内が働きに出るわけにもいきませんからね。
3
長男を戦地に送る
池田
第二次世界大戦では、お子さんが出兵されましたね。
児玉
長男のハウーがイタリアに行きました。ブラジル政府の命令でね。
池田
ハウーさんが何歳の時ですか。
児玉
二十八、九歳だったと思います。なんというか、法令だったからね。私にはどうすることもできない。
池田
お父さんとしては、息子さんを戦争にとられた。これはもう、止めることができない。口には出せなかったけれど、辛かったでしょうね。
児玉
別れて、息子は最初、サンパウロからリオ(リオデジャネイロ)に行ってね。一カ月ほど滞在して、ある晩、リオから帰ってきたんです。最後の別れを言いにね。
じつはそういうことが何回かあった。「ああ、今度はとうとう行っちゃうんだな。これで最後なんだな」と、いつも思った。
でも、はっきりした指令が下されず、戦場行きは中止だといってまた戻ってくる。そんなふうに繰り返しているうちに、「もしかしたら行かずにすむかもしれない」と、ふと思ったものです。しかし結局、戦場へ行ってしまった――。
池田
戦時中、私の友人たちも、少年航空兵に志願していきました。しかし、わが家では四人の兄が次々に徴兵されましたので、父は「どんなことがあっても戦争に行かせない」と、ものすごい勢いで、私を止めました。
今となって、ありがたかったなと、あの時の父の顔を懐かしく思い出します。
児玉
そういうことがあったんですか。
息子に配属の命令が出たとき、私の妻はハウーに形見の品を渡しました。これは妻が昔、日本を出てブラジルに来るときに母親からもらったものだそうです。
母親は、それを託して「これを持って必ず帰ってらっしゃい。あなたの兄さんは、この形見を持って中国から生きて帰ってきた。だから、あなたも必ず生きて帰ってくる」と言って、妻を送り出したそうです。今度は、妻がそれをハウーに渡して、「必ず生きて帰っておいで」と、送り出したんです。
池田
胸を打たれるお話です。ビルマで戦死した私の長兄も、母の嫁入り道具だった鏡の破片を大切に持って戦地にむかいました。同じ鏡を私も持っていましたので、それを手にするたびに、戦場の兄を思ったものです。
ところでハウーさんの兵役は、どのくらいの期間だったのでしょう。
児玉
わずかな間でした。砲兵隊でね。日系の人はほかにも大勢いたそうです。一九四五年(昭和二十年)にイタリアで脚を負傷して、その治療のためにアメリカに渡り、プルデンテに戻ったのは、翌年、戦争が終わってからです。
息子がいたのはイタリア南部のある小さな町で、休息をとる場所だったそうです。大砲で攻撃され、たくさんの兵士が死にましたが、息子はたまたま軍需品を取りに行っていたために、危ういところで助かったんです。
池田
そうでしたか。無事でおられたことが何よりの親孝行です。
児玉
本当に無事でよかったなと安心しましたよね。とにかく、息子はブラジルの兵隊として行ったんですからね。日本の敵国ですから。
池田
そのハウーさんも、今は七十代ですね。
長兄を戦争で亡くした時、私も辛かったけれども、母の悲しみ、落胆の姿は、とても見ることはできませんでした。
母はよく、戦地に行った長兄のことを夢に見たと話していました。「喜一は大丈夫、大丈夫だ。『必ず生きて帰ってくる』と言って出ていった」――母はこれを口にすることで、自分を励ましていたようです。
その一縷の望みが絶たれ、兄の戦死の報を受け取った時の、母のあの後ろ姿――。世の母たち、親たちをこれほどまでに苦しめる戦争を、私は心の奥底から憎いと思いました。
児玉
私らは皆、苦しんできましたからね。大切なことは、戦争を起こさないことです。戦争は、勝ったとか負けたとかの問題ではないと思います。
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