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日蓮大聖人・池田大作

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東京各区合同記念幹部総会 ″太陽の仏法″輝く世紀の扉を

1987.12.19 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  ″本物の労苦″で″本物の勝利″を飾れ
 師走の伝統となった江東の幹部会が、本年は各区の合同記念幹部総会となり、また一つの大きな歴史を刻んだと確信する。年末でご繁多のなか、また寒いなかを遠路、ご参集くださった、すべての皆さま方に、私のほうこそ心より感謝申し上げたい。
 さらに本日はアメリカ、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、パナマ、オーストラリア、シンガポール、西ドイツと八ヶ国の代表も、はるばる駆けつけ、参加してくださっている。その並々ならぬ信心の労苦に、最大の敬意をささげたい。
 ともあれ、すがすがしい決意と笑顔と希望あふれる本日の集いとなったことを、衷心より喜び、賛嘆申し上げる。
2  ちょうど、この江東文化会館へ本部を出発する直前のことである。一人の方より、報告があった。それは学会本部の近くに住む一婦人の話である。その婦人は、かつては批判的であったようだが、最近、近隣の学会員に、こうもらしておられたという。
 「今は、あまりにもだらけた青年が多い。その中で、学会の青年の姿を見ると、本当に凛々りりしく、礼儀正しい。しかも確信に満ちた行動である。こんな頼もしいものはほかにはない。見るたびに、ほれぼれとします」と。
 心うつろげな若人が増えるなかで、創価班・牙城会の諸君をはじめとする青年部の真剣な姿に感嘆した――との率直な声である。
3  なにごとも真剣な″努力″のないものに″栄冠″はない。芸術、スポーツ、学問、事業、皆そうである。まして峻厳な仏道修行においては、いうまでもない。
 では、私どもは何のために信仰し、仏道修行しているのか。当然、一生成仏のためであり、広宣流布のためである。これを、ある面からいえば、″人生の達人″になるためである。″生命の達人″になるためである。すなわち人間としての真実の勝利をかちえるためである。
 どの道においても、″本物の苦労″なくして″本物の勝利″はない。これは当然の因果の道理である。と同じように本物の信行なき者には本物の功徳はあらわれない。
 私どもの真剣な信心と真剣な努力、そして広宣流布への本物の労苦は、もっとも根本的な人生の勝利につながる。それは一時的、表面的な勝ち負けの次元ではない。生命の″三世永遠の勝利″を飾っていけるからである。
 この一点さえしっかりとはらに入れば、何もあせる必要もなければ、恐れる必要もない。正面から正々堂々と、そして着実に、素晴らしき正攻法の青春と人生を生き、輝いていけばよいのである。
 ゆえに、とくに青年部の諸君は、貪欲なまでに、本物の労苦をみずから求め、みずから挑戦していくべきであると私は申し上げたい。
4  だれ人にも誠実、謙虚に
 さて明春、東京富士美術館で、ベルギーの美術の名宝を集める展覧会の計画がある。その準備のため、私の代行として渡欧している青年から、先日、連絡があった。私の友人であるフランスの美術史家ルネ・ユイグ氏からの話を伝えてくれたのである。
 その中にベルギー国王・ボードワン一世についての感銘深い話があった。ユイグ氏は過去、何回か同国王にお会いし、その人となりに強い印象を持たれたようである。
 ユイグ氏の話によると、国王は大変に人柄のよい人格者であられる。かつてユイグ氏がベルギーで講演した際、国王が聴きにこられたことがあった。国王は終始、きちんと聴いておられ、終了後はわざわざ玄関まで見送ってこられたという。
 玄関前には多くの人々が詰めかけていた。そして口々に「我らが国王」と叫んでいた。すると国王は、その時、少し身震いをされた。「お寒いですか」。ユイグ氏が声をかけると、国王は「寒いのではありません。私は国民の人々に責任を感じるのです。いつも身が引き締まるのです」と話され、その後、大変丁重に国民に応えておられた、というのである。
 ユイグ氏はこの時、国王は本当に誠実で率直な方だ、また正直な方だと直観したと語っている。
 また、こんなこともあった。ある展覧会の開会式に国王が出席されることになり、ユイグ氏が王宮にお出迎えに行った。その折、侍従じじゅうの方から話を聞くと、その日のスケジュールに開会式の出席があることを聞かれた国王は、展覧会のすべての資料、図録を取り寄せるよう命じられた。そして二、三時間の間に、できるだけの知識を得るため、ご多忙のなか、真剣に勉強された。周囲の人々には「何も知らないで、ただ儀礼的に開会式に出るというのは、傲慢ごうまんです」と淡々と語っておられたそうである。
 その話を聞いて、ユイグ氏は国王の誠実さに心打たれたという。私も感動した。国王が多くの国民に深く尊敬されている理由の一端が納得できる気がした。
 この二つのエピソードは、すべての指導的立場にある人にとって貴重な教訓である。民衆への″責任感″と、ものごとへの″謙虚さ″と。
 広布の指導者もまた、絶対に傲慢であってはならない。傲慢な人には、誰もついていかない。ゆえに徹底して、みずからの心を練り、人格を磨いていかなければ、結局、無責任であり、指導者として失格である。
5  また、つい先日(一二月一七日)、駐日タイ大使のビチエン・ワタナクン氏と懇談した。その中で大使は、タイ国民がこぞって敬愛するプーミポン国王の偉大さを語っておられた。
 なかでも第一の要因として、国王の日常のお振る舞いが、国民と非常に近しいことをあげられた。
 ――国王はタイの国の全地域を訪問され、農村や、町から遠く離れたところにも足を延ばされている。そして国民の何かの助けになればとの、ご努力を身をもって続けてこられた。全国どこに行かれても、国民の生活をどうしたらよいかを常に考え、行動される。また福祉事業等を王室として熱心に実施されている。これらは国王が王位に就かれてからの一貫した姿勢である。したがって国民は、国王に慈父のような思いをいだいている――と。
 これもまた感銘深い話である。指導者として、民衆のため、人々のために一体何ができるのか、そのことを四六時中、考え、一直線に行動する。その責任感と実行力が信頼の基盤となる。またタイ国王が全国どんな場所も訪問されているように、私どもも公平に、みずからの担当する全地域へ激励の足を運ぶ努力が必要である。自分の行きやすいところ、楽なところにばかり行くのでは、所詮、要領である。責任感ではない。信心でもない。
 ともあれ、たまたま、お二人の国王の話になったが、一国の指導者として、まことに真剣な姿であられる。ここから、使命深き広布のリーダーとして、何らかの示唆を得ていただければ幸いである。
6  大聖人の「未来記」を断じて実現
 さて、ここで話は、まったく変わる。テレビだって、時々、チャンネルを変えないわけにはいかない。リーダーの話も、聴いている方々の心のニーズ(欲求)を敏感に感じながら、臨機応変に進めていかなければ、一方的であっては心からの納得は得られない。
 「諫暁八幡抄かんぎょうはちまんしょう」といえば、草創期、私どもが幾たびとなく拝し、心肝に染めた御書の一つである。いうまでもなく″太陽の仏法″である三大秘法の妙法が、東洋を、世界を照らしゆくことを宣言された有名な御書である。
 御執筆は弘安三年(一二八〇年)十二月、厳寒の真っただなかであられた。時に大聖人は聖寿五十九歳――。
 先日、お話しした四条金吾の妻、例の″ひと言多かった日眼女にちげんにょに与えられた御手紙(「四条金吾許御文」)も、この月、相前後してしたためられている。
7  当時は、この前月の十一月十四日に、鎌倉の鶴岡八幡宮が炎上、また蒙古が再び来襲しようとしている緊迫した情勢であった。そうしたなか、大聖人は同抄の末尾において、あまりにも有名な次の御指南をしたためられている。「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と。すなわち月は、はじめ西天に現れ、日を追うにしたがって、次第に東天に昇るようになる。これは月氏(インド)の釈尊の仏法、″月の仏法″が、東へ向かって弘まっていく相である。太陽は東に出現し、西に入る。これは日本の大聖人の仏法、″太陽の仏法″が月氏へ向かってかえっていく瑞相である――。東洋広布への明確なる御宣言であられる。最近は海外というと、何となくアメリカやヨーロッパの方にばかり目を奪われている人が多い。しかし、さまざまな意味で、また仏法上、アジアは重要な地域なのである。もちろん大聖人の御在世当時は、日本・中国・インドの三国が世界観の中心であり、三国への流布をもって、全世界への妙法流布を示されたことはいうまでもない。
8  さらに「月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」――月は光が弱く明らかでない。釈尊在世の法華経の説法は、ただ八年である。太陽は光明が月よりまさっている。これは(″太陽の仏法″が)末法五の五百歳の長い闇を必ず照らしていく瑞相である――と。
 月と太陽の光の強弱によせて、釈尊の仏法と大聖人の仏法との勝劣を述べられた一節である。
 そして「仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」と結んでおられる。
 ――釈尊は法華経を誹謗ひぼうする者を治されることはなかった。それは在世の衆生は調機調養じょうきじょうようされ、仏種が熟した者ばかりで、基本的には謗法の者がいなかったからである。しかし末法には一仏乗の法華経に敵対する強敵が、必ず充満する。この時は、不軽菩薩のごとき折伏行によってこそ救われるのである。各々わが日蓮門下は勇気をもって折伏行に励んでいきなさい――と。
 この御指摘の通り、私どもの広布の前進に、強敵は充満してきた。まったく御文のままである。ならば、また、強敵を恐れず、不軽菩薩のごとく、勇敢に折伏行に励む学会の実践によって、多くの人が妙法の絶大なる「利益」にうるおうことも絶対に間違いない。
 「はげませ給へはげませ給へ」と仰せのように、大確信をもって、東洋へ、世界へと、まっしぐらに大法流布に励んでいかなければならない。
9  この大聖人の″未来記″を絶対に虚妄こもうにしてはならないと立ち上がったのが、戸田先生であり、創価学会である。
 先生は昭和二十六年十一月、第六回総会の席上、「創価学会の大誓願」と題する講演をされた。会長就任後、初の総会である。戸田先生は大御本尊に対する学会の誓願を明らかにされたのである。時に、立宗七百年を翌年にひかえた重大な時期であった。
 講演のなかで先生は、こう叫ばれた。
 「立宗以来七百年、日本に仏法渡って千四百年、もしもこの南無妙法蓮華経が東洋へ行かずば、日蓮大聖人様のおおせは妄語となり、大聖人様の仏法は虚妄となるのであります」
 そして学会は、断じて「大聖人様の予言を果たす仏の弟子として、東洋への広宣流布を誓う」(『戸田城聖全集 第三巻』)のであると、明確に教えてくださった。
 この先生の師子吼に、草創の青年部は、みな奮い立った。そして私は、先生の仰せの通りに、東洋広布、世界広布への道をひた走りに走ってきた。いな、道なき道を切り拓いてきた。
 御本仏の仰せは絶対に虚妄にできない。何があろうとも、断じて実現する以外にない。ゆえに何ものも恐れず、仏の使いとして一切を乗り越えて厳然と進む。この決然たる強き強き信心の一念に学会精神があり、戸田先生の精神がある。
10  今や東洋への大法流布の道は立派に開けた。世界広布への壮大なる流れもできた。この滔々とうとうたる流れは、やがて二十一世紀のを大きく開き、いよいよ拡大していくことを私は確信している。ゆえに私は、くる日もくる日も、着々と、その本舞台を建設し続けている。明年初頭にも、文化・教育交流のため、東南アジアの諸国を訪問する予定である。
 ともあれ、学会は立宗七百年の時に符合して、大聖人の「我が弟子等はげませ給へ」との御遺命のままに立ち上がった、不思議なる仏意仏勅ぶついぶっちょくの団体である。この重大なる意義と使命は、いかに強調してもしすぎることはない。
11  美しき″心の共和″の世界築け
 次に、草創の女子部の活躍について、少々ふれておきたい。
 昭和三十一年(一九五六年)師走の十二月八日、日淳上人は、川崎市市民会館で開催された女子青年部第四回総会に出席された。これには、戸田先生とともに、当時、参謀室長として常に先生のもとにいた私も出席した。
 歴代の上人は、学会の意義と功徳を、繰り返し賛嘆してくださった。この日も日淳上人は、若き乙女達のはつらつとした集いを終始、温かく見守り、次のように御講演された。
 「先程来いろいろ研究発表、体験発表、あるいは全国の現況報告、あるいは代表決意等、うけたまわりまして、私は心から感激をいたしております。
 ただ、その全部を要約いたして申せば皆様方に日蓮大聖人の御魂が脈々と燃え上がっているということを痛感する次第であります。
 いろいろと承りまして何一つ大聖人様の魂そのままを皆様方が受けつがれていないものはないということであります。大聖人の魂を伝える皆様がますます日本国を導いて行く時には、ちょうど大聖人様が愚痴一ついわれず、只『南無妙法蓮華経』と唱えられて来た御在世当初にかえっていくものと存じまする。
 日蓮正宗は単なる一宗旨であるばかりでなく一切衆生の宗旨であり、この日蓮正宗を背負って立ち上がって行かんとするのが戸田会長先生でありまする。(中略)
 いよいよ若いこの熱と、この気迫を持って大聖人様のために御奉公願うことを申し上げて挨拶に致します」(『日淳上人全集 上巻』)と。
 草創の女子部の方々は、青春時代を広布と信心のために、健気に戦ってこられた。そうした若き日の訓練、また真剣な実践があったからこそ、今日、婦人部となっても、輝く栄冠の人生がある。現在、日本全国で活躍している多くのリーダーが、また、世界の各地に雄飛し、妙法の先駆者として活躍している方々のほとんどが、当時の女子部出身である。
 ここで日淳上人は、大聖人の御魂そのままを受け継ぎ、広布に進んでいる草創の女子部の信心をたたえてくださっているわけである。
 若き女子部時代こそ、人生の基礎を築きゆく時である。未来の成長と幸福のために、現在の大いなる労苦をさけてはならない。
 広布のため、法のため、また人々のための活動は、すべてみずからを飾りゆく幸のかんむりとなる。一時の人気や財産、華やかさなどを追う青春からは、人生の幸福の実像は絶対につかむことはできない。三世永遠に崩れることのない福運の王女の境涯を築くためにも、広布の庭で悔いなき青春の乱舞の日々であっていただきたい。
12  また日達上人は、昭和三十六年(一九六一年)の年頭、次のように述べられた。
 「世界の人々を幸福にするという大事業を、わが創価学会が行なっておるのであります。つまり、創価学会員は日蓮大聖人様のお使いであり、大聖人様の所遣しょけんとして、大聖人様のを行じておるのであります。
 さすれば、創価学会員は大聖人様の子であり、一分である、と考えられるのであります。すなわち、創価学会員こそ即身成仏の人々であると申すのであります。じつにありがたいことであります」(「大白蓮華」昭和三十六年一月号)と。
 大聖人の御遺命のままに広布に進んでいる学会員の存在が、いかに素晴らしいものであるかを、日達上人が明言くださっている。近年、学会や学会員に対して、卑劣な暴言をもって非難を浴びせてきた悪侶達がいたが、このお言葉に照らしても、その正邪は明白であろう。何も恐れる必要はない。″大聖人のお使い″との大確信に立って、獅子のごとく堂々と使命の道を進んでいただきたい。
13  さらに、日達上人は、昭和三十二年十一月の「第十七回総会」の折には、宗務総監として出席され、「観心本尊抄」の「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」の御文を拝し、次のように話された。
 「今や総本山には、宗祖・大聖人より六十五世日淳上人が正法を弘持しておられます。一方、学会には会長戸田先生が賢王として折伏を現じております。(中略)皆さん学会員は会長のもとに、われわれ僧侶は法主のもとに、正しき信心に従して、ここに一致団結して大いに働こうではありませんか」と。
 いわゆる宗義による解釈は解釈として、日達上人のまことに慈悲深い激励であると拝する。
 そして、昭和三十九年の年頭にも「観心本尊抄」を拝されて次のように言われている。
 「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布に進軍しております。私は僧として薄墨うすずみの衣と、白五条の袈裟けさに身をたくし、折伏の上の摂受によって、一切の宗教儀式の執行を主宰しゅさいいたしております。ともに、まさに来たらんとする広宣流布を迎えるための準備は、一時もゆるがせにしてはなりません」(「大白蓮華」昭和三十九年一月号)と。
 私のことはともかく、まさに日達上人が述べられたとおりの宗門と学会の和合であった。広布のための戦いは、少しもゆるがせにはしなかった。
 「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と御聖訓に仰せであるが、ある時、日達上人が「会長さん、瞬時たりとも油断はできませんね」といわれていたことを、私は胸に深く覚えている。
 日淳上人と戸田先生、日達上人と私、この宗門と学会の麗しき、また絶妙なる和合があったがゆえに、仏教史上、未曽有の仏法の大興隆が成し遂げられたのである。このことを、後世のために、とくに申し上げておきたい。
14  なお日達上人は、ここで仰せの「袈裟」について、この年(昭和三十九年)五月三日の第二十七回総会の折、日寛上人の「当家三衣さんね抄」を拝しつつ、次のように話されている。
 「(「当家三衣抄」には)本宗の僧侶の法衣をお説きになり、われわれが薄墨の衣の上に白袈裟をかくるは、泥水に白華を生ずるところの姿で、当体蓮華を表わすとお説きになっております。(中略)白袈裟をかけるは、僧侶ばかりのようでありますが、日寛上人は、当流の信者は、袈裟を身につけざれども心にかくるなりと仰せになっております。この袈裟を心にかけるということが、もっとも大切なことでございます。それはうわべの信心でなく、真実の信心を申されておるのでございます。
 もし、袈裟をかけている僧侶が、ただ袈裟を身につけているだけで、心にかけていなかったならばどうでしょう、大変なことになります。すなわち『悪鬼入其身あっきにゅうごしん』で、それこそ戒壇の御本尊を離れ、本山にそむき、我慢の心を生じ、いまだ得ざるを得たりと考え、寺を横領し、単立寺院などとわめく外道となってしまいます」と。
 近年、この日達上人の御心に背き、この指摘どおりに「悪鬼入其身」の姿を現じた悪侶が出た。いかに法衣の権威をもってみずからを粉飾しようとも、もはや彼らは外道であり、「仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」なのである。すなわち「正信会」とその流類は、いかに御本尊を拝していても大謗法の徒である。
 この「悪鬼入其身」のやからが、創価学会の厳たる″信心の血脈″をけがし、断ち切ろうとしたのが、一連の事件の本質であった。
15  さて、昭和五十七年(一九八二年)、マスコミを利用しての迫害の嵐が学会を襲っていた。
 その渦中にある十一月十八日、「学会創立記念日」のその日の日記に、私は一首を記し、御本尊に、そして戸田先生に捧げた。
  仏勅の 学会守らむ 此の世をば
    紅涙したたる 日々があるとも
            戸田先生弟子大作
 これは、師弟の道に生き抜く私の終生変わらぬ誓いをんだものであった。
 遊び半分や偽りや、その場しのぎの言葉で、自分の卑怯さをとりつくろい、逃げていくような者に、「師弟」を語る資格はない。そんないいかげんな、浅はかなものではない。
 迫害にあえばあうほど、苦難な状況に置かれれば置かれるほど、ともに苦しみ悩み、道を開いていこうというのが師弟の崇高な精神である。人間としてもっとも峻厳にして最高の道なのである。ここに、いつの時代にあっても忘れてはならない本当の学会精神があると私は確信している。
16  古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「その人自身(=中傷している当人)が信用できない者であるのに、その人の言葉は信用できるというのであれば、それは滑稽なことである」(『弁論術』山本光雄訳、『アリストテレス全集16』所収、岩波書店)と論じている。
 本当にその通りだと思う。しかし、人はとかくこの矛盾に気がつかず、言葉にごまかされてしまうことが多い。それを見抜いていけるかどうかに、賢者と愚者の違いがある。人格の人と、要領の人の違いがある。
 人間の常として、環境に対応していく姿に、その人の生命の傾向性が如実に現れているものだ。信心にあっても、何か事があるたびに紛動されてとらわれていく生命であるのか、または何事にも揺るがず、すべてを信心で受けとめ、行動していく人なのか。そうした表面だけではとらえきれない生命の傾向性、信心の厚薄、人間の本質を鋭く見抜いていける皆さま方であっていただきたい。
17  真実の″友情の絆″は逆境に光る
 ところで、このほど、創価大学に、新たに「人文学科」が設置される運びとなった。創立者として、本当にうれしい。そのことを記念して、少々、創価大学のことをお話しさせていただきたい。
 創大は、世界各国の諸大学との教育・学術交流を、活発に進めている。そのなかでも、ソ連のモスクワ大学との交流は、開始してから、はや十三年になる。
 両大学の間に確たる″友情の道″を開いた功労者の一人は、モスクワ大学のホフロフ前総長であろう。我が創大の名誉教授でもあるホフロフ氏については、拙著『心に残る人びと』(角川書店)でも、種々紹介させていただいた。(本全集二十一巻収録)
 詳しいことは省略するが、ホフロフ氏は一九二六年生まれで、私より二歳ほど年長である。ご自身も、モスクワ大学を卒業し、放射線物理学を専門とする科学者として業績をつまれた。
 お会した時には、たえず穏やかな微笑をたたえ、しかもりんとした気品を失うことがなかった。その高潔な人柄が、私には今もって懐かしい。
 私達は、錦秋のモスクワで、また紅葉の武蔵野で語りあった。そして、リンゴの白き花咲くモスクワ、さらに桜花爛漫の東京でも、対話を続けた。こうして、出会いを重ね、友情を深めあいながら、教育交流の未来構想を交換し、両大学の″友情の道″を開いてきた。
 モスクワ大学は、ソ連の、最古にして最大の名門大学である。かたや、我が創大は、誕生間もない、無名の新進大学であった。
 しかし、ホフロフ総長は「創価大学は、二十一世紀の人材を育成していく大学であり、モスクワ大学も、また同じである」と語り、「この交流は、未来に必ずや、大きな実を結ぶであろう」と展望されていた。
 そうした言動には、″象の塔″にありがちな権威主義や傲りの感情は、微塵もなかった。だれ人に対しても公平無私であり、つねに真摯しんしな姿勢を崩さなかった。私はそこに、ホフロフ氏の偉大さを見たいのである。
18  人間の″傲り″ほど、醜い感情はない。恩師の戸田先生も、この一点には常に峻厳であり、よく「傲り高ぶった人間は、最低の人間である」と語気を強めておられた。
 社会にあっても、また広布の組織にあっても、決して″傲り″の人であってはならない。″傲り″の人からは、おのずと人心が離れ、友人や後輩も次々とその人のもとを去っていくものだ。これほど寂しいことはないし、悲しいこともない。
 政財界や学問の世界をはじめ、いかなる分野にも、傲り高ぶった権威と名利の人がいるものだ。しかし、そうした人々の″傲り″の心を、豊潤な人間性へと変えゆく労作業こそ、ほかならぬ私どもの使命であると自覚したい。真実の人間生命の変革は、「妙法」による以外にないからである。
 まさに、正しき信仰とは、人間性の精髄を発揮させゆく王道である。ゆえに、私どもの折伏・弘教は、地球上のあらゆる″傲り″の存在と戦いゆく民衆の一大運動となっているといえよう。
 ともあれ我らは、決して傲慢ではなく、信心の信念ですべてに勝った。その信念に多くの人々が和合していったのである。
19  ホフロフ総長は、まことに残念なことに、一九七七年、大好きな登山のさなか事故にあい、急逝された。まだ五十一歳の働き盛りであった。今は亡き総長をしのび、明年には長編の詩をみ、ぜひとも贈らせていただきたいと思っている。(本全集四十一巻収録)
 それから十年後の今日、モスクワ大学と創大との交流は、ますます活発となり、拡充している。日ソ青年の交流発展へのホフロフ氏の思いは、見事に開花したといってよい。
 目的に向かって懸命な行動を続けていくならば、たとえ短期的には成果が出なくても、やがて必ずや一つの結実を生むことができる。それが人生の法則であろう。ゆえに、一喜一憂することなく、生ある限り、我が目標に向かって奔走し、行動し抜くことが大切なのである。
 ともあれ、創価大学にとって、ホフロフ総長は、大切な恩人の一人である。その多大な功労を、私は、絶対に忘れないつもりである。
 そうした思いから、六年前の第三次訪ソの折には、墓参もし、追善の唱題をさせていただいた。また、本年五月の第四次訪問のさいには、ご子息とお会いし、しばし懇談する機会を得た。父の遺志を継ぎ、モスクワ大学の教官となり、物理学を講じているという。その、すっかり成長した姿に、私も、心からうれしく感じたものである。
 私には、こうした友情で結ばれた方々が、世界に数多くいる。この友情の絆を、これからも大切にしていきたいと思っている。
20  ところで、ホフロフ氏が生前、語っていたなかに、忘れられない言葉がある。それは、「真の友は、災難の時に知る」という、ロシアのことわざである。鋭く真理を突いた一言として、まことに印象深い。
 順調な時は、固い友情で結ばれているように見えても、いざ、何か困難が起きた時には、苦境の友のもとを去っていく者がいる。それどころか、逆境に苦しむ友をかえって非難するような変節の徒も少なくない。本当に、情けない限りである。
 しかし、真実の友人、同志、また師弟の絆というものは、逆境の風が吹けば吹くほど強固になり、信頼を深めていくものである。恩師と私との「絆」も、困難にあうたびに、その堅固の度を増し、金剛不壊ふえ紐帯ちゅうたいとなっていった。皆さま方は、この方程式を、決して忘れてはならない。
21  人間性の触発こそ時代の要請
 亡きホフロフ氏のあとを継いだのが、ログノフ現総長である。
 総長は、ホフロフ氏と同じ一九二六年生まれで、現在六十歳。やはり、モスクワ大学出身の物理学者であり、創大からも名誉教授の称号が贈られている。
 完成当時には世界最大であった「陽子シンクロトロン」(原子核および素粒子の構造や相互作用の研究に利用される加速装置の一種。この装置で得られる粒子の最大エネルギーは七百億電子ボルト)の建設指導者としても著名である。
 ログノフ総長も、創大との交流に深い理解を示し、力を注いでくださった。とともに、私との長年にわたる対談の成果は本年、『第三の虹の橋』(毎日新聞社刊)として出版された。その間の、総長、ならびに関係者の並々ならぬ尽力に、私は心から感謝申し上げたい。
 ログノフ総長は、ソ連を代表する世界的な科学者である。その総長が、過日、次のように語っておられた。
 「私の専門は、物理学という限られた分野にすぎない。だが対談では『科学』のみならず、『哲学』『文学』『社会』等、幅広く論じあうとともに、池田先生の本質を突いた問題提起を受け、本当に勉強になった。生涯、忘れえぬ思い出を刻むことができた」と。
 私は、学者でもなければ、評論家でもない。平凡な市井しせいの一庶民である。その私に対し、ログノフ総長の言葉は恐縮の極みである。ただ私は、ログノフ総長の言葉に表れた誠実さ、謙虚さに、胸打たれずにはいられなかった。
 フランスのある哲学者は、「大きな成功は、人を愚かにしなければ、謙虚にする」と述べている。社会的な成功を収めた場合、傲り高ぶり″愚か″になってしまうか、それとも反対に、以前にも増して他に対し誠実となり、謙虚さを増していくか、どちらかであるとの鋭い指摘である。
 どのような分野であれ、一流の仕事を成しゆく一流の人物は、どこまでも謙虚であり、精進の歩みを止めることがない。それに対し、二流、三流の人物は、小さな成功に酔いしれ、現在の自分に満足し、増上慢となる。ゆえに、ことさら努力もしなければ、成長もない。人々が心の中で嫌っていることも分からなくなっているのである。ここに、一流の人物と、そうでない人間との、微妙にして決定的な相違がある。
22  さらに、ログノフ総長は、私との対談で「自身の世界が広がり、大きな″人間性の触発″を受けた」とし、今日の文明的課題について、「先生がつねづね語り、実践されている″人間性の触発″こそ、今、全世界が求め、希求してやまないものである」と語っておられた。
 いわば、一人一人の個人が孤立し、「分断」と「対立」の宿命的な悪循環を繰り返しているのが、現代の世界の実情であろう。これを、いかに「調和」と「対話」の潮流へと転換していくか。ここに、現代におけるもっとも根本的な課題がある。
 現代の行き詰まりを打破するためには、たとえ地道ではあっても、着実な、一対一の「対話」「触発」がもっとも重要である。ゆえに私は、みずからも数多くの世界の指導者と語らいを重ね、また、平和のための米ソ首脳会談の実現を、長年にわたり提唱してきた。
 ここ数年、幸いにも首脳の会談が進められ、その結実として過日、歴史的な″核の削減″が実現した。私どもの長年の信念と努力が実証された形となり、本当にうれしく思う。
 また、創価大学の海外交流を積極的に推進してきたのも、教員、学生間の相互理解と″魂の触発″を進めていくことが、″平和のフォートレス(要塞)″として、最大の貢献となることを確信しているからである。
 現在、創大は、モスクワ大学をはじめ、十一カ国・十五大学と交流するに至っているが、今後も大学と大学との友情の輪を一段と広げていくつもりである。(平成六年十一月現在、二十八ヶ国・地域、四十九だ医学と交流)
 東京富士美術館の「フランス革命とロマン主義展」は、私とルネ・ユイグ氏との友情で、ユイグ氏らが尽力してくださり、実現したものである。
 ところで、「ロマン主義」といえば、その旗頭は、ドラクロワである。今回の展示にも、彼の作品が出品されているが、ユイグ氏らが好んで遣われる、このロマン主義の巨匠の次のような言葉がある。
 「絵画とは、作者の心とる人の心との間にかけられた一つの橋」(ドラクロワ)にほかならない――と。
 絵画という″かけ橋″を通じて、作者と鑑賞者の「心」と「心」は初めて通い合う。と同じく、実り豊かな出会い、対話という″かけ橋″がなければ、人々の「心」は通じ合うことが出来ない。人々の「心」と「心」に″かけ橋″を築いていくことは、私ども仏法者の使命である。妙法に照らされた出会いと友情こそ、もっとも深い「信頼」と「安心」、そして「魂の触発」をもたらす最極の絆となるからである。
 長い人生である。職場でも、学校でも、地域でも、多彩な出会いがあり、語らいがあるだろう。その一つ一つを、何よりも大切にしながら、私どもは最高の「法」を受持した者として、名画のごとく美しい″人間共和の世界″を構築していきたいものである。
23  自らの決めた道を自分らしく
 本年も残すところ十日余となった。戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)十二月二十一日の十二月度本部幹部会の席上、会員の一年間の労をねぎらいつつ、次のように述べられている。
 「かえりみると、今年は遺憾いかんがなかっただろうと思います。来年も同じく自分たちの信仰のうえにたって、来年の目標を完遂して、たえず凡夫にほめられるのではなく、仏さまにほめられる境涯になろうではありませんか」と。
 この一年間を振り返ってみるとき、学会の前進には何の悔いもない。私も悔いなきこの一年間であった。日々、全力投球で、この一年を十年分にも生きてきたつもりである。
 大事なことは、自分の胸に問いかけて、最大に満足できるかどうかである。
 戸田先生は巻頭言「自らの命に生きよ」(「大白蓮華」昭和三十一年二月号)の中で、次のように述べられている。
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、いっさいの人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ……いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない」(『戸田城聖全集 第一巻』)
 あの人がどうの、この人がどうの、組織がどうの、社会がどうのというようなことに振り回されてはならない。あくまでも信心のうえに立って自分自身に生ききっていくところに本当の人生がある。
 御本尊を人々に教えていこう。妙法を社会に広げていこう――。そのみずからの決めた道を自分らしく生きよう。御本尊とともに自分自身に生きよう。そこからすべてが広がっていくのである。
24  また戸田先生は、先ほどの本部幹部会の指導のしめくくりに、大きな功徳を受けた一家の体験をとおして、こう述べられている。
 「御本尊様の功徳は絶大だから、おおいにがんばって、あの人があんなふうに立派になったか、といわれるようになってもらいたいと思う。それが私の願いなのです。今年なれなくても、来年はゆっくり落ち着いて、あわてずに、そして急いでやりなさい」と。
 信心しているけれど、去年と同じじゃないか。いや、もっとひどいじゃないか、ではいけない。また、あのいじわるが、まだ続いているじゃあないか。もっとあの人は変わってほしい。要領やいいかげんさだけで泳いでいるあの人も驚くほど変わってもらいたい、などといわれるのではいけない。
 今年も来年も同じようではならない。一年、一年と、年の瀬を迎えるたびに「本当に立派になった。成長した」と、多くの人々からいわれるような、皆さまお一人お一人であっていただきたい。
25  希望の新年を力強く出発
 さて、大聖人の御振る舞いを拝する時、もったいなくも「正月休み」などとられなかった。元朝の太陽とともに、一年の法戦を開始されている。
 ある年の十二月二十二日付のお手紙では、次のように仰せである。
 「止観第五の事・正月一日辰の時此れを・みはじめ候、明年は世間怱怱なるべきよし・皆人申すあひだ・一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候」と。
 ――『摩訶止観』の第五の巻を、正月一日の辰の時(午前八時頃)から読み始めます。明年は世間が騒々しくなるだろうと誰もが言うので、ただ後生のために、正月十五日まで止観を講じようと思っております――。
 「世間怱怱」とは、蒙古の来襲への恐れを指すと思われる。いずれにしても、社会が騒然とし、人心がいたずらに不安に流されている時だからこそ、三世永遠にわたる真実の安穏のために、大事の法門を説いていこうとの仰せと拝される。
 この『摩訶止観』とくに第五の巻には、天台の「理の一念三千」の法門が明かされている。大聖人がその講義をされるに際して、御内証には「事の一念三千」の大法が赫々かっかくと輝いておられたことはいうまでもない。
 ちなみに天台の三大部である『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』について、御書を根本にした上で、大聖人の仏法をより深く拝するために学ぶ意義は大きい。それらはすべて大聖人の三大秘法の仏法の偉大さを証明する文証となり、また序分・流通分となっていくからである。
 そこで、将来の課題として、天台の三大部の考察をきちんと考察をきちんと残しておきたいと考えている。
26  ともあれ大聖人は、元朝の″午前八時の太陽″とともに、門下の方々と一年の出発をなされている。
 次元は異なるが、私どもも変わらざる伝統として、新年勤行会をもって、一年のはつらつたるスタートを切っている。
 かつてある高名な方が、元朝から行動を開始している学会の姿を見、聞いて、「学会では元旦から早くも力強い出発をしている。世間の神社、仏閣の参詣と違って、学会は生き生きと使命感に燃えて集まってくる。これでは、どこもだれ人も勝てるものはない」と語っていたそうである。
 当然、一家の団らん等も、大切にしていただきたい。その上で、仏道修行のため、広宣流布のために、明年も、ともどもに、力強い希望に満ちた出発をしていただくよう、心よりお願い申し上げる。
 最後に、本日、お目にかかれなかった皆さま方に、くれぐれも風邪をひかれませぬよう、また、よいお年を迎えられますよう、お伝えいただければ幸甚である。このことを申し上げ、記念のスピーチを結ばせていただく。

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