Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

各部合同代表者研修会 三世永遠の人生の王道を

1987.9.15 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
35  さて、この断末魔の苦に心を乱されず、それを乗り越えていくためには、どうすればよいか。この点がだれしも、もっとも関心の高い(笑い)、またもっとも重大なポイントである。
 このことに関して、「臨終用心抄」では三点をあげ、ふだんからの用心をうながされている。
 第一に、他人をそしったり、いじめたり、人の心を傷つける言動を、つね日ごろから慎むことである。つまり、そしり等の悪い行為が死苦を強めていくというのである。当然、折伏・弘教のための破折、また広布のための建設的意見、注意等は、それとはまったく別である。
 とくに妙法をたもつ地涌の勇者を、そしり、いじめ、侮辱などした罪は限りなく重い。無間地獄の苦しみとなる。これは信心のあるなしにかかわらず、同様である。また信心している場合は、なおさらである。
 第二には、このわが身が四大(地水火風)の仮に和合したものであるという実相を、よく理解しておくことを教えられている。つまり「死」によって、わが身の「四大」が宇宙法界の「四大」へと帰還し、融合していくとき、あらためて驚かないように覚悟しておくことである。その覚悟によって、心を乱すことを防げるからだという。
 そして第三番目は、これがもっとも肝要であり、一切の根本となるが、つねに御本尊と自分が一体であると思って、唱題に励むことである。この一点を実践していれば、あとはおのずからそなわってくるといってよい。
 このことを述べられるにさいし、日寛上人は「総堪文抄」の「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終をわる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず」の一節を拝しておられる。
 すなわち、自分の「生命」と仏の「生命」とが、同じ一つの「生命」であると悟れば、臨終の平安をさまたげる悪業も生じない。生死の苦しみにとどまらせるような迷いの一念も起こらない――との大聖人の仰せであり、わが身が本来、仏の当体であることを強く確信しきって、御本尊に唱題していくよう教えられている。
 このように日寛上人は、あくまでも信力・行力・仏力・法力を根本とされており、そのうえでさまざまな用心を指導されている。
 正法の、この正しき実践を貫いた人は、臨終の時にも、何の憂いも、痛みも、苦しみもなく、晴れやかな″大安心″の境涯で、新たな三世の旅路へと出発していける。ここに仏道修行の重要な目的がある。そのように、死を見事なる勝利の人生の完成となした信仰者は、皆さまの周囲にも必ずや数多くおられるにちがいない。
36  大聖人は「御義口伝」のなかで「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず三世常恒の授記なり」と喝破されている。
 ――「生」の「記」があれば必ず「死」があり、「死」の「記」があれば、また「生」ずるのであって、三世常恒の授記なのである――と。
 まさに仏法は、「生死」を繰り返していく生命の永遠性を明かし、その「生死」の流転を仏界という最極の境地に、どう高め上昇させていくかを説き示している。
 「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざる」と、大聖人がお示しのごとく、どこまでも御本尊を受持し、題目を唱えながら、広布に生きぬいたときにこそ、三世永遠にわたる生命の王道、最高の歓喜の大道を歩んでいけるのである。
 ゆえに、この無上道から離れてはいけない。仏種を断じてはならない。絶対に退転してはならない、と強く申し上げておきたい。
37  ともあれ、現実は三世永遠への大切な第一歩でもある。ゆえに私どもは強盛な信心にこの一生をかけながら、またこの現実の一つ一つの仕事に勝ち、乗り越えながら、永遠なる″歓喜の王道″を一歩一歩、進んでいきたいと念願し、本日の記念の講演とさせていただく。昭和六十二年九月十五日 創価文化会館

1
35