Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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北海道広布開拓三十周年幹部会 わが生命の永遠の軌道を

1987.8.2 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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28  永遠の幸福は信仰者の特権
 信仰の目的は、この「生死不二」というべき永遠の生命を実感するところにある。
 日淳上人の青年時代の論文の一つに「信じ得ぬ人々へ」(『日淳上人全集 下巻』)と題するものがある。その一節にはこうある。
 「仮令よし宗教は信ぜずとも生きられよう。しかしの生命は狭くて浅いつ短い、如何いかに其れが富貴ふうきによって維持せられ所謂いわゆる幸福と恋にみたされようとも、やはり狭くて浅いつ短い」
 たしかに、ただ生きるのみであれば宗教は必ずしも必要ではない。現に多くの人は何ら確固たる宗教もないまま生きている。しかし、どんなに富や名声、表面の世間的幸福に満ちていたとしても、その生命の内実は狭く、浅く、短いのである。
 また「わらいの後に寂しさがありいかりの後にあわれの情が影を投ずる。享楽の半面に必らず酔ひざめのあわさがあるに違いない。がそれさへも仏を知らぬ人々は気づかずにいるのかもしれぬ、煩悩を煩悩と知った人にはいつも強さがある」と。
 まことにそのとおりである。一時の娯楽に打ち興じても、それのみではあとに寂しさがある。感情的に憎み合っても、その後からわびしさが追いかけてくる。傲然と民衆を見下す権力者も、また嫉妬の情から正義の人々のあげ足とりに熱中する売文家も、われにかえれば、心の中はあまりにも空虚である。いな、彼らはその虚しさに気づくこともないのかもしれない。こうした煩悩を煩悩と明らかに知ることができるのは、すでに一歩、求道の歩を進めた人だけだからである。
 そして上人は「永遠と究竟くきょうとにひたることのきるのは信仰に入り得たものにのみ許されたる特権である。久遠の生命を直観したる者にして初めて分段ぶんだん変易へんにゃくの生死を超越するを得、如々の本仏の世界を直達正観したる者が初めて人間苦を脱し得るのである」とも述べられている。
 少々むずかしい表現であるが、その大意を拝せば、究極にして永遠の仏界の世界に浸り、そのつきぬ喜びを味わうことのできるのは「信仰者の特権」であり、他の人の″生命の宮殿″を開き、また我が身も宮殿に住しながら、生々世々、仏界に遊戯ゆうげしていく――。たしかに、これほどの「特権」はないであろう。
 また、仏界という「久遠の生命」の次元を直観し、その生命と一体になってこそ、分団変易の「迷いの生死」の流転を脱することができる。すなわち宇宙の真如の姿である御本仏の世界、妙法の世界を信心によって直ちに正しく観ずる者こそ、変転極まりない「人間苦」を脱することができる、と。
 日淳上人はさらに「此の時こそ生の目的と意義とを理解する」と続けておられる。信仰によってこそ、人生の真実の目的と意義を知り、それを実現することができる。これに対し、多くの人は、皆この最重要の課題から目をそむけ、逃避しているがゆえに、真実の「幸福」を知ることもない。
29  戸田先生は、かつて「われらが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福に生きんがためである」と端的に教えてくださった。
 三世にわたって、常楽我浄の大歓喜の境涯で、妙法と一体となり、生きぬいていける。そうした崩れざる「幸福」な自己自身をつくるのが、日々の仏道修行である。皆さま方は、すでにその人生最極の軌道に入った方々であり、これ以上、大切な尊き存在はない。十方の諸仏・諸天も、厳然と皆さま方を守りに守りぬいていくにちがいない。
 大聖人は、妙一尼と同一人物とも考えられている妙一女に与えられた御文のなかで、こう仰せである。
 「事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ、汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん
 ――事を権力者に寄せて、日をおどすよりも、釈尊の正しい経文を出しなさい――と。
 大聖人の大難に次ぐ大難の御生涯は、仏法のうえでも、世間のうえでも、大聖人には一片の罪もなかった。迫害者は、法門の正義では大聖人にとうていかなわないことを知っているがゆえに、卑劣にも権力を動かし、大聖人を亡き者にしようとしつづけたのである。
 広宣流布の前進におけるこの障魔と迫害の方程式は、現在もまた未来も変わらないことを銘記しなければならない。そして大聖人の″汝らは人間を味方としている。日蓮は日月・帝釈天・梵天を味方としよう″との烈々たる御確信を深く拝したい。
 世の人は、えてして″人″と″金銭″に頼って生きる。しかしそれらは、すべてうつろいやすく、また人生の真の大事には力にならない。私ども大聖人の門下は、妙法の力用によって、全宇宙が味方であり、日月、諸星、風神、地神、水神、火神、梵帝、無量無辺の諸天善神が、一体となって地涌の勇者を守り、懸命に支えるというのである。これほど力強い応援はないし、味方はない。だれびとも自然と宇宙の運行を止めることはできないのと同じく、諸天の働きをはばむことはできない。これこそ御本尊の無量無辺の力であり、功徳なのである。
 「日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」――この御本仏の壮大な御境界を仰ぎ、私ども門下もまた、宇宙を友とし、語りゆくような広々とした境涯で生きゆきたいものである。
30  真実の「自分」として生き抜け
 私も、十九歳で正法の信仰に入って、満四十年を迎える。いわゆる宗教の世界、信仰の世界も見てきたつもりである。また社会も、ある程度見てきたつもりである。世間のさまざまな人間模様も、多くの喜劇・悲劇のドラマも見てきた。
 そこで結論としていえることは「自分自身に生ききる」ということである。″世間がああだから″″あの人がこうだから″などというのではなく、正しき法理の上に自分自身が生ききっていくことだと思っている。猫の目がくるくる変わるようなこの世界にあって、それらにいちいち紛動されたり、気がねをしていれば、結局″自分″がなくなってしまう。堂々と我が人生を生き抜いた人が幸せである。
 世間体を気にしたり、幻の栄誉を追ったり、はかない快楽に憧れたり、過度の物質的充足に狂奔したりして、″自分″を見失ってしまえば、本当の幸福を実感することはできない。
 人生の真の幸福と真の勝利は、自分自身の胸中にある。ゆえに、確固たる信仰と確固たる人生観をもちながら、堅実に着実に、そして悠々と朗らかに歩みゆかれんことを心から願って、私の記念のスピーチとさせていただきたい。

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