Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI第7回特別研修会 指導者は常に向上を

1987.2.25 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  自身を磨く学びの人たれ
 アメリカ滞在中、皆さま方には本当にお世話になり、心から感謝申し上げたい。きょうは、全米の最高幹部の代表が集い合った。その意義をとどめる意味からも、滞米中の最後の研修会として、少々、懇談的に話をさせていただきたい。
 ほかの席でも申し上げたが、今やアメリカ広布の土台は完ぺきに出来上がったといってよい。いよいよ、アメリカ広布新時代の幕開けが到来したと思う。その新たな時代への出発にさいし、これからの広布のリーダー像について、様々な角度から申し上げておきたい。
2  第一に、信心の指導者は、どこまでも自身を磨く″学びの人″であってほしい。
 現在は、あらゆる階層の人々に、広く、深く、仏法への共感を広げていくことが大切な時代である。そのためには、明快な論理と良識豊かな納得性が、弘教にさいしても不可欠となる。相手が「なるほど」と心からうなずくまで理解を広げていけるくらいの深い境涯をもっていきたいものである。
 ゆえに、「正法」を持った最高リーダーである皆さま方は、教学はもちろんのこと、歴史、地理、政治、経済、科学、芸術など、あらゆる分野での研さんを忘れないでほしい。知性、教養なき独善的な論理は、人々の共鳴を得ることができないからだ。反対に、信心を根幹としての深き教養は、その人の言葉に説得力をもたらし、さらには人格をも飾って、人々の信頼を集める人間的な魅力ともなっていく。
 つまり、豊かな教養は、周囲の仏法理解を広げ、深めていくのである。この原理を、信心のリーダーは、とくに銘記されたい。
3  「仏法」は即「一切法」である。換言すれば、あらゆる学問・思想は妙法に流入し、また南無妙法蓮華経の一法から出生しているのである。ゆえに、南無妙法蓮華経という根本の一法を信受した私どもは、最高に世間法にも通じ、生かしきった姿でなくてはならない。
 それは、いかなる学問・知識であれ、生き生きと受けとめ、くめども尽きせぬ智慧へと上昇させていける根本の妙法をもっているからである。
4  ただし、年配の方にとっては、勉学、研さんといっても、容易でない場合が多い。それは、私も、十分に承知している。
 しかし、何歳になったとしても「生涯求道」「生涯研さん」の姿勢だけは、堅持していきたいものである。なかには、どんなに努力しても、なかなか進歩しない場合もあろう。が、信心を根本としていくならば、すべてが「因果倶時」の法理で、その努力は、必ず自身を飾る無量の智慧と輝いていくのである。
 さらに、後輩は、先輩の姿に学び、成長していくものだ。年配の方々の真摯しんしな″学び″の姿は、必ずや青年にみずみずしい研鑽の意欲を促し、大いなる成長への刺激剤となっていくのである。そのためにも皆さま方は、若いこれからの人々を広布の流れの上からも全力をあげて育ててほしい。
 どうか、この点を深く銘記し、すがすがしい「求道」の人生を生き抜いていただきたい。
5  黄金の州に人材の山脈を
 さて、アメリカ広布の中心拠点は、カリフォルニア州のロサンゼルスに置かれている。そこで、本日はカリフォルニアの歴史、地理、また現在の状況について少々お話ししておきたい。
 カリフォルニアは太平洋に面し、ロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都市を擁する州である。その名は、スペインの詩人が、″美女と黄金の楽園″として描いた夢の島・カリフォルニアに由来している。十六世紀の初頭、スペインの探検隊が、カリフォルニア半島に到着。そのとき、太平洋上の暖かく明るい土地として描かれた詩の島と、条件が一致していたところから名づけられている。
 現在も″ゴールデン・ステーツ″(黄金の州)として世界の人々のあこがれの地となっている。太陽の光に恵まれ、実り豊かな平野、深い森、鋭い峰の山々と、自然も多彩である。東部にあるシェラ・ネバダ山脈も″光明の山脈″といわれている。
 このように自然と文明豊かなカリフォルニアの州都・サクラメントの州会議事堂の一角には、ある詩人の次の言葉が刻まれている。
 「われに わが山なみに比ぶべき 人材を与えよ」と。
 この言葉のごとく、未来性と自然豊かなカリフォルニアの天地に、信行学を深めた光り輝く広布の人材山脈を築いていただきたい。
6  しかしながら、こうした楽園のようなカリフォルニアにも自然の脅威がある。ロサンゼルスを訪問して、いつも思うことは、何故このように温暖で日光も豊かな大都会でありながら、高層ビルが少ないのか、ということであった。聞けば、それはかつてこの地に地震が多く、そのために高層ビルを建てなかったというのが、理由の一つであった。
 過去一世紀の間にも十五回を超える激しい地震があった。とくに一八五七年(ロサンゼルス)、一九〇六年(サンフランシスコ)、一九七一年(ロサンゼルス近郊)など、周期的な大地震にも見舞われている。約十五年前の地震は多数の死者を生じ、十億ドル以上の損害を与え、研修道場があるマリブの沖でも海底から大量のメタンガスがわき出たと記録されている。
 現在も、こうした大地震が起きることが懸念されている。だからこそ、世界の広布の中心拠点をもつこの地が安穏で平和であるよう、「立正安国」への祈りと実践を一段と深めていかねばならない。
7  ともあれ、なぜこのように地震が多いのか。それは、カリフォルニアには世界の地殻のなかで、最も長い、露出したサン・アンドレアス断層と呼ばれる活断層が、州のほぼ全域を南北にわたって縦走しているからである。この断層は六千五百万年もの間、活動をつづけているともいわれる。こうした地質学的な条件をふまえて将来、超大地震が起こるかもしれないとの仮説をたてる人さえいる。ただし、多くの科学者は、こうした極論には否定的である。
 一九〇六年のサンフランシスコ大地震のすさまじさはあまりにも有名である。サン・アンドレアス断層に、約九メートルの動きが生じた。多くの建物が倒壊し、道路は陥没し、市の中心部は大火につつまれた。約七百人もの尊い生命が失われたという。
 このような大被害にもかかわらず、サンフランシスコの市民達は廃虚と化した都市を、力を合わせ、たくましく復興させた。サンフランシスコ市民の、その心意気は、同市のシンボルマークである″不死鳥″(フェニックス)に結晶している。いかなる苦境に陥っても、未来の希望の星を目指しつつ、敢然と立ち上がり、挑戦し抜いていく――このフェニックスのごとき逞しい精神こそ、広布の精神の真髄であることを忘れてはならない。
8  「安国」のために広宣流布を
 日蓮大聖人は「立正安国論」に次のように仰せである。
 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し
 ――いまや、あなたは早く邪法への信仰の寸心を改めて、法華実乗の一善たる日蓮の法門に帰依しなさい。そうすれば、すなわちこの三界は、皆仏国である。仏国であるならば、どうして衰微することがあろうか。十方の国土はことごとく宝土である。宝土であるならば、どうして壊れることがあろうか。国に衰微なく、国土が破壊されることもなくなれば、人々の身は安全となり、心には不安もなく、幸福な生活を送ることができる。この言葉は心から信ずべきであり、あがむべきである――と仰せなのである。
9  日蓮大聖人の仏法は、「安国論」に始まり「安国論」に終わるといわれるように「正法」によって国を安穏にしていくことが、根本となっている。国土に衰微と破壊がなく、平和が保たれてこそ、人々は安心して幸せな生活を享受できる。その人生の幸福と社会の平和、国土の安穏と繁栄への源泉が妙法である。またその本源的な変革のための私どもの運動なのである。
 この「立正安国」の原理は、日本だけのものではない。全世界、地球総体へと通じていく普遍の原理である。今日にあって、日本は、その縮図の一つとして「立正安国」を実証しつつあるわけである。
 どうか、このカリフォルニア州の、また、アメリカ全土の崩れざる平和と繁栄を築きゆくためにも、一人一人の信仰の深化と広布推進の活動がいかに大切であるかを、知っていただきたい。
10  勇猛の信心、精進の人に
 次に法華経の一文を拝しておきたい。広宣流布を目指す、地涌の勇者の行動について説かれた経文である。
 すなわち見宝塔品第十一には「是則ぜそく勇猛ゆうみょう 是則ぜそく精進しょうじん」(開結四一九㌻)とある。「すなわち勇猛なり 是れ則ち精進なり」と読む。
 有名な「勇猛精進」の句はここに由来する。つまり、心を勇ましく励まして、苦難・難行を乗り越え、力を尽くして仏道修行に励むことである。皆さま方は、このアメリカという広大な天地で、果敢に転教の疾駆を続けてこられた。まさしく「勇猛精進」の指針を胸に進んでこられた勇者の方々である。
11  少々難解となるが、この文の説かれる見宝塔品で釈尊は、自分の入滅後の妙法弘通を三回にわたって大衆にすすめ命じている。これが「三箇さんか鳳詔ほうしょう」である。鳳詔とは天子のみことのりのことであり、仏の金言を指す。
 そのうち第三の鳳詔には有名な「六難九易ろくなんくい(六つの難しいことと九つのやさしいこと)」の原理が示されている。仏滅後、法華経を受持することが、いかに困難であるかを教えたものである。
 「是則勇猛 是則精進」の文は、この「六難九易」のあとに説かれている。すなわち、難事中の難事である妙法弘通――その実践をなしていく人こそ、まさに「勇猛精進」の人なのである。
12  見宝塔品には次のようにある。
 「此の経はたもがたし しばらくも持つ者は 我すなわ歓喜かんぎす 諸仏もまたしかなり かくの如きの人は 諸仏のめたもう所なり 是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れをかいを持ち 頭陀ずだを行ずる者と名づく 則ちく 無上の仏道を得たり く来世にいて 此の経を読み持たんは 是れ真の仏子 淳善じゅんぜんに住するなり」(開結四一九㌻)と。
 この経文において、「此の経」とは妙法華経、すなわち末法においては御本尊のことである。
 御本尊を受持することは難しい。もし少しの間でも持つ者があれば、釈尊は歓喜し、諸仏も同時に喜ぶのである。ゆえに生涯、御本尊から離れてはならない。
 困難に打ち勝ち、正法を実践しぬく人は、三世十方の諸仏がほめたたえ、守っていく。この実践者の姿を「勇猛」といい、「精進」という。また、この人こそ真の持戒の人であり、清浄の行を行う者と名づける。つまり、御本尊受持という一行に、一切の他の仏道修行の功徳は備わっているのである。
 ゆえに、この人は「疾く 無上の仏道を得たり」で、すみやかに成仏という無上の功徳を得ることができる。
 末法において妙法を持つ人こそ″真実の仏子″なのである。また「淳善の地に住する」とは、最も清浄なる地、すなわち常寂光土に住することである。崩れざる常楽我浄の境界に住し、何があっても悠々と、人生をエンジョイしていくことができるとも拝せよう。
13  以上が「勇猛精進」の一応の意義である。
 さらに日寛上人は、その著「依義判文抄」の中で、ただいま拝した「此の経は持ち難し(中略)淳善の地に住するなり」の「文」にって、三大秘法の「義」を判じられている。つまり、この経文に「本門の本尊」、「本門の題目」、「本門の戒壇」の三大秘法が明かされているということである。
14  一大秘法の「本門の本尊」は、三大秘法総在の本尊である。日寛上人は、この三大秘法総在の本尊を明かすなかで、「勇猛精進」の文が本門の題目に配されることを述べられている。
 すなわち「本門の題目に即ち二意を具す所謂いわゆる信心唱題なり、まさに知るべし勇猛精進は即ち是れ信心唱題のゆえに本門の題目とすなり」と。
 ――本門の題目には二つの意義がある。いわゆる「信心」と「唱題行」である。そして″勇猛精進″とは、信心と唱題のことであり、ゆえに本門の題目の意義となる――と。
15  それでは、なぜ「勇猛精進」が「信心」と「唱題」の義になるのか。そのことを次に述べられている。
 「勇猛は是れ信心なり、ゆえに釈に云く『いさんすを勇と言い智をつくすを猛と言う』云云、ゆえに勇敢にして信力を励み竭すを勇猛と名づくるなり」と。
 ――勇猛精進のうち″勇猛″とは信心の意義である。ゆえに釈には″勇猛″の意義を述べて「いさんでなすを勇といい、智のかぎりをつくすを猛という」とある。勇敢にして信力を励みつくすことを″勇猛″と称するのである――という意味である。
 さらに「精進は即ち是れ唱題の行なりゆえに釈に云く『無雑の故に精・無間の故に進』と云云」と仰せである。
 ――(″勇猛″が「信心」を意味するのに対し)″精進″は「唱題行」を意味する。釈には「『無雑』すなわち、まじりけがないゆえに、″精″といい、『無間』すなわち、たえまなく続くゆえに″進″という」――と述べられている。
 精進とは、この御本尊のほかに成仏の道はないと決め、何があっても、生涯、題目を唱えぬいていく――その純粋にして強盛なる実践の持続の姿を指すのである。
16  結論して言えば、「勇猛精進」とは、御本尊への絶対の「信心」に立ち、自行化他にわたる「唱題行」を実践していくことである。
 ほかの誰でもない。他のいずこの仏菩薩の姿でもない。この悪世末法にあって、地涌の友のリーダーとして活躍されている皆さま方こそ、法華経に説かれた「勇猛精進」の指針を銘記し前進してきた、栄えある実践者である。この尊き事実を深く自覚していただきたい。
 社会のいかなる有名人よりも、いかなる権威の指導者よりも、皆さま方の広布への行動は偉大である。妙法の力は個人も社会も、さらには自然の国土まで根底から救いきっていけるからである。
17  「勇猛精進」の深義は、少々、難しかったかもしれない。すぐに理解できなくても結構である。しかし、真剣に法を求め、御書を学んでいく。そのこと自体が信行学の「学」の実践である。また教学を学ぶ場に参加し、求道の息吹にふれること自体、我が生命に三世にわたる″宝″を積みゆく結果となっていくのである。
 その意味で本日の「勇猛精進」の話を、ともかく最後まで聞き、学んだ人は、理解の程度はともあれ信心の立派な優等生であると申し上げておきたい。
18  広布の師子たれ
 牧口先生の指導に次のようにある。「羊が千匹いても、一頭の獅子にはかなわない。獅子がくれば、羊はすぐに逃げてしまう。憶病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば大事を成就することができる」と。
 つまり人材は数ではない。一人一人がいかに力をもち、立派に成長していくかである。牧口先生が「現在少なくても、将来、必ず広宣流布の時がくる」といわれているように、たとえ今は数は少なくとも、勇気ある信心の人がいれば、必ずや広布の大業は成就していくことができるのである。
 その意味で、まず皆さま方が、広布の師子の存在であっていただきたい。皆さんの成長の一波が、万波の人材を育て、広布の大河をつくっていくのである。
19  「聖愚問答抄」には「只正理を以てさきとすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ」との御金言がある。
 ――ただ、正理を第一とすべきであり、ことに人数の多いことを根本として判断してはならない――との仰せなのである。
 私どもは、どこまでも、この御聖訓を忘れてはならない。そして根底に慈愛で包みながらの、理路整然とした仏法対話でなければならない。ただ数の多さのみをもって、仏法の偉大さを実証しようという行き方であっては決してならない。
 また、社会の発展や人々の意識の向上にあわせて、幹部自らが、理論を磨き、良識を深めながら、つねに新しき時代、社会をリードしゆく、一人一人へと成長していただきたいことを心から念願し、本日のスピーチとしたい。

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