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太陽と月  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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5  一家をあげて学会のために
 夫人 ありがとうございます。三人の子どもは、信心を自分なりに理解し、取り組むようになりました。
 こんなことも、ありました。
 三男の尊弘が高校生の時に、小笠原に星の観察に行くというのです。私は未来部の会合に出るべきだと言ったのですが、学校の友人たちとの前々からの約束だから、どうしても断れない、と言います。
 主人に相談したら、「信仰は一生涯取り組むべきものだし、長い目で見れば、今回は小笠原に行かせてもいいのではないか。大事なのは、信心しぬくことなんだから」と言うのです。私も、なにかホッとしまして……。
 長じて、信仰への理解が深まるにつれ、学会の指導や広布の実践に関しては、「父」というより「師匠」として、きちんと主人に接するようになっていきました。
 松岡 周りで拝見していても、師弟の関係を踏まえておられ、本当にすがすがしく感じております。
 夫人 二男の城久は二十九歳で亡くなりましたが、世の親御さん同様、私も悲しみを味わって、人間として人の苦しみや悲しみを深くわかるようにしていただきました。なにか苦しみや悲しみがなければ、本当に人の苦しみゃ悲しみを知ることはできないものですね。
 人生はすべてが生かされて、体験になるものですね。
 佐々木 先日、先生のお孫さんの貴久さんにお会いした時に、本当に大きくなられたので驚きました。
 立派になられ、貴公子ですね。もう大学生になられたようですね。
 奥さまと、城久さんの奥さんと、貴久さんと、和やかに語りあっておられるお姿を見て、じつにすばらしい光景だと感じました。和やかに楽しそうに、手をつないで歩かれていたお姿を、私は忘れることはできません。
 夫人 博正は大学(慶麿義塾大学)を卒業し、就職するにさいし、いろいろな会社からお声をかけていただいたようです。でも、教育を終生の事業とする父親の姿を見て育ったせいでしょうか、みずから教職の道を選び、関西創価学園にお世話になりました。
 今は対外的な諸活動が増えましたので、主人の名代として動くことが多くなりましたが、皆さまのお役に立ってほしいと願わずにおれません。
 尊弘も創価大学を卒業後、教職の道に進み、関西創価小学校に就職しました。最近は手がいくつあっても足りない状況ですので、主人の近くで動くことが多くなりました。
 松岡 奥さまは尊弘さんの就職にさいし、「大学の先生になるより、小学校の先生の方が、子どもたちにあたえる影響を思えば、大事でしょう」と言われたと、先生からうかがったのですが。
 夫人 ええ、そう申しました。牧口先生、そして戸田先生も、小学校の先生でいらしたでしょう。創価教育学会が、学会の栄えある発足ですもの。
 池田 私は公私を立てわけ、これまであまり家のことは話しませんでしたが、ここでは、いろいろとオープンにされてしまった。(笑い)
 松岡 ありがとうございました。読者の要望が多かったものですから……。
 池田 私は、戸田先生の弟子として、命の続くかぎり、広布に尽くしていきます。一家をあげて、学会のために、会員の皆さまのために、働かせていただくのみです。
 一九七五年にグアムで、SGIの会長に就任した時、私は世界の代表に、こう呼びかけました。
 「皆さまは、自分が花を咲かせようというのではなくして、全世界に妙法の種をまいて、尊い一生を終わってください。私も、そうします」と。
 この決意は、終生変わりません。

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