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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第20回卒業式、関西… 君よ! 青春の獅子たれ

1990.3.16 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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3  ”芸術の獅子”ロダンの青春
 本日は、獅子の彫刻にちなんで、「近代彫刻の父」とうたわれる、フランスのオーギュスト・ロダン(1840年〜1917年)のことを少しお話ししたい。彼も”獅子”の一人であった。
 皆さんも、ロダンの傑作「考える人」や「カレーの市民」などを知っていると思う。言うまでもなく、カレーはフランス北部の都市であり、有名な歴史の舞台でもある。
 八王子の東京富士美術館の庭にも、彼の青春の結晶であり、出世作となった「青銅時代」という青年の像がある。今年は、ちょうど彼の生誕百五十周年。ロダンは、「第二のルネサンス」と呼ばれる時代を、雄々しく戦い、生きた「芸術の獅子」であった。では、このログンは、はじめから自信満々の天才だったか。決してそうではなかった。むしろ多感な青年期、人一倍、失意と挫折の連続だったのである。
 彼の十代にこんなエピソードがある。パリの庶民の街に生まれ、貧しい庶民の家庭に育ったロダンは、彫刻家を志し、当時、芸術家の登竜門であった「官立美術学校」に挑戦する。十七歳前後――ちょうど諸君と同じ年代になろうか。ところが、彼の希望に反して失敗。それも得意の彫刻の試験で不合格であった。次の年も、またその次の年も、合格の報はロダンには届かなかった。三度目の落第で、彼は受験資格を失い、官立美術学校の門は永久に閉ざされてしまう。
 「見込みがない」「まったく才能が見あたらない」という烙印が容赦なく押されたのである。
 世間は矛盾だらけである。正しき”眼”を持っていないともいえる。問題は、その矛盾を突きぬけ、大きく乗り越えて、どう揺るぎない自分自身をつくりあげるかである。
 当時は、この美術学校の学位がなければ、芸術家としては認められないような時勢であったという。彼はまだ二十歳前。激しい落雷のように、青春を襲った挫折であった。
 ある伝記によれば、この時、落胆し、憔悴しきったロダンは、母校のボアボードラン先生のもとを訪ねた。ところが、その先生は彼を慰めるどころか、断固とした口調で言いきった。
 「(=落第は)君にとってはこの上なくよいことだった。……君は、ミケランジェロが、《官立美術学校》を必要としたと思っているのかね?」(デイヴィド・ウァイス『ロダンの生涯』榊原晃三訳、二見書房)
 ”この失敗は嘆くどころか、未来の大成のためにはかえって幸運であった。古ぼけた権威に認められなくともよい。君は君らしく、新しき勇者の道を切りひらけ”というのである。彼は奮起した。
 誠実な言葉の力は偉大である。また教師の責任、そして喜びも、まことに大きい。若き魂の奥深くに、自己の生命をそそぎこんでいく。それが将来の”魂の巨木”の種子となっていく。
 もちろん人間を育てる作業は一律であってはならない。いつも決まりきった答えを押しつけているようでは、鋭敏な若人を納得させることはできない。魅力もない。 一人一人に応じた魂の対話が必要である。その意味で、教師も、ともに成長していかねば、教育の世界の充実はない。
 もしロダンが、この師の励ましを受けず、彫刻をあきらめていれば、あの数々の世界的名作は生まれなかった。彼は、落第生と決めつけられた悔しさをバネとして、その後の全生涯をかけて「十九世紀最大の彫刻家」たる自分をつくりあげていったのである。
4  たくましき「楽観主義」で
 「自分なんかもうだめだ」と思うような瀬戸際の時が、諸君にもあるにちがいない。じつは、その時こそが、自身の新しい可能性を開くチャンスなのである。人生の勝利と敗北、幸福と不幸、の分かれ目が、ここにある。
 「自分」という人間を決めるのは、だれか――。自分である。「自分」という人間をつくるのは、だれか。これも結局は自分以外にない。他人の目や言動に一喜一憂する弱さは、それ自体、敗北に通じる。
 ロダンは、その後二十年にもわたり、彫刻家の助手、建築彫刻、石膏取りなど下積みの仕事をかさねながら、徹底して勉強し、実力をつけていった。
 ほめてくれる人は、だれもいない。苦労して作った作品も、少しも売れない。貧しい身なりのため、図書館から本の貸し出しも制限されてしまう。
 しかし、わが道を定め、行動に徹しゆく人の心は、どんな境遇に置かれても、きょうの青空のように晴れやかである。
 下積みもなく、歯をくいしばるような辛苦もなく、かんたんに得られた名声や成功は、ホタル火のようにはかない。人間としての黄金の光を放つことはできない。労苦こそが自身の不滅の「人格」を磨くのである。
 ログンはのちに、こう振り返っている。「仕事さえしていれば決して悲観しなかった。いつでも嬉しかった。私の熱心さは無限でした。休む間もなく勉強していました。勉強がいっさいを抱擁していたのです」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波書店)と。
 努力即幸福である。努力即勝利である。とともに、後年、ロダンは、弟子たちに”青年はあせってはならない”と繰り返し教えていたという。「一滴一滴、岩に喰ひこむ水の辛抱強さ」を持たねばならない、と。これは芸術のみならず、万般にわたって、大事を成しゆくためのポイントであろう。
 岩にきざむ忍耐で、鍛えの青春を送った人は、年とともに光ってくる。「人格」が輝き「知性」が輝く。「精神」の果実の豊かな味わいがでてくる。その人こそ、真の栄光の人である。
 さて、ロダンが五十八歳の時に発表した文豪バルザックの像は、世間から悪評の集中砲火をあびる。しかし、だれに何といわれようとも、彼は十年近くの歳月、全魂をかたむけた自分の仕事に、満々たる「自信」と「誇り」をもっていた。
 ロダンはこの時、「全世界が反対しようとも、あの作品に私は責任をもつ」と断言したという。その裏付けには、だれにも負けない血のにじみでるような「努力」の積みかさねがあった。自分の「努力」は、自分自身がいちばんよく知っている。
 このロダンの言葉は、まことに味わい深い。どうか諸君も、この一生で何でもよい、いかなる分野であってもよい、「全世界が反対しようとも」と言いきれるものを、自分らしく成し遂げていただきたい。
 時には、傲慢な権威のカベに押し返されることがあったとしても、くじけてはならない。むしろ、それ以上の勢いで、みずから信ずる道を、誠実に、粘り強く求めぬいていく。私は、そうした強き「獅子の心」で、この青春を勝ち取っていただきたいと切望する。(拍手)
5  友情が人生を美しく飾る
 ところで、女子生徒の皆さんもいらっしゃるので、カナダの美しい自然を舞台とした『赤毛のアン』の物語について、少々、お話ししたい。これは、孤児であった赤毛のアンが朗らかに、また、たくましく成長していくドラマである。
 アンはおしゃべりで、想像力旺盛で、失敗ばかりかさねる。しかし、決して落ちこみはしない。
 大学入学を前に、アンを育ててくれた養父が急死。アンは進学を断念せざるをえなくなる。
 悲しみのなかにあって、アンは励ますように、養母にこう語りかける。
 「自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがった先に何があるのかは、わからないの。でも、きっと一番よいものにちがいないと思うの」(モンゴメリ『赤毛のアン』村岡花子訳、新潮文庫)
 これが、物語を貫く主人公アンの考え方であり、人生観である。ゆえに、アンはどんなに不幸な運命に出あおうと、決して嘆かない、悲しまない、負けはしなかった。
 ”曲がり角をまがれば、きっとすばらしい景色がまた広がるにちがいない”と考え、明るく、伸び伸びと生きていった。そうした生き方ができること自体が幸福である。何かあれば、すぐ嘆き、悲しみ、落ちこんでしまう。それは、決して獅子の子の生き方ではないし、不幸な人生である。
 また、アンは”友情は人生を美しくする”と、いつも友人を大切にした。人生でいちばん美しく薫っていくものは友情である。私も世界に多くの友人をもっているが、友情にこそ、もっとも深い、信頼が結ばれているものである。そして、人生を美しく飾ってくれる。
 こうしてアンは、教師となり、妻となり、母となって幸福な生活を送っていった。
 私は、アンの生き方をとおして、「君たちよ楽観主義で生きぬけ。長い人生を、悲観主義でいたずらに悲しんだり、苦しんだりしてはならない」と申し上げたい。
 楽観主義は、いいかげんな、安易な考え方をいうのではない。強く、たくましい生き方である。
 どのような事態に直面しても、”あっ、きっとこのようによくなっていくにちがいない””これは、このような意味だから、かならず道を開いていくことができるものだ”と、人生の苦悩を悠々と楽しく見おろしながら、つねに、よい方向へ、明るい方向へと、とらえていくことである。楽観主義は、境涯を大きく開いてくれるのである。
 これから、新しき世紀、新しき世界の舞台にむかいゆく諸君である。どうか、何よりも健康であっていただきたい。あらゆる工夫、努力をしながら健康で、長寿の人生であってほしい。また、お父さんお母さんをはじめ諸君とつながった人々を、世界旅行にでも連れていってあげられるような力をもち、幸福な生涯を築いていっていただきたい。諸君のことは、毎日祈っているが、本日も、どうかご多幸であれ、と心から祈り、記念のスピーチとしたい。

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