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創価学園1 中学校・高等学校[昭和57年度]

教育指針 創価学園(1)(池田大作全集第56巻)

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8  関西創価中学・高等学校 第八回卒業式(メッセージ)〈昭和58年3月14日〉
 誠実にして勇気の人に
 ご卒業、おめでとうございます。関西創価中学・高校も、ここに第八期生を送り出すにいたりました。
 きょうまで皆さんを育ててくださったご両親、また校長先生はじめ諸先生方に、厚く御礼申し上げます。本当に、ご苦労さまでした。
 関西創価学園は、昨年から男女共学となりました。この場には、男子の諸君もおられます。今春巣立つのは、女子の皆さんでありますが、ここで男女に共通する視点から、ひとことごあいさつを申し述べたいと思います。
 インドの詩人タゴールの言葉に「うわべのみの自由の名によって、自由を粉砕することは、まったく容易である」というのがあります。
 青春時代は、等しく自由でありたいと願うときであり、それはごく自然な感情であるといえましよう。しかし、そこで大切なことは、真の自由とは何か、そのために人は何をなすべきか、ということであります。昨今、十代の青少年による非行、暴力、犯罪が社会をにぎわし、まことに残念な、悲しむべき事件が相次いでおります。それには、さまざまな要因がありましょうが、私はそこに、タゴールのいうような、うわべの自由を追い求めるあまりに、真の自由を破壊している姿を見る思いがしてなりません。
 ルソーは名著『エミール』のなかで、十代の思春期は人生における第二の誕生であるとして、そのようすをこのように描いております。
 「気分の変化、たびたびの興奮、たえまない精神の動揺が子どもをほとんど手におえなくする。まえには素直に従っていた人の声も子どもには聞こえなくなる。それは熱病にかかったライオンのようなものだ。子どもは指導者をみとめず、指導されることを欲しなくなる」(今野一雄訳、岩波文庫)激しい不安といらだちが、思春期にはつきもののようであります。それはさながら、第二の誕生にともなう陣痛のうめきであると私は思います。
 この「熱病にかかったライオンのような」感情の起伏は、しばしば現実を徹底して嫌悪するかたちで現れます。父母を顧みず、大人の世界を敵視し、礼儀をうとんじ、およそ社会生活を営むうえで不可欠な、もろもろの規則や常識を軽んずる結果となります。またときには、異性への熱烈なあこがれとなって噴出します。そのあげくに、破滅的な人生をたどることも、めずらしくありません。
 しかし、思春期に特有の感情の起伏は、プラスの方向に転化されたとき、偉大なる創造的エネルギーとなります。そのためにも、私は皆さんに「これは、と思う人には、全魂をもってあたれ」と申し上げておきたい。読書を通して出会う文豪でもよい、学校の先生でもよい、あるいは実社会で接する先輩でもよい。ともかく、それらの対象に、全魂をこめてぶつかり、打ち込んでいくことこそ、若さと青春の特権であるからであります。
 そのような、人間と人間との全人格的なふれあいと格闘のなかから、本当の自分というものが発見できる。人生の旅路にあっては、他人に本当に打ち込める人であって、初めて、真実の自己を確立できるのであります。そうしたチャンスを一度ももったことのない青春は、まことに不幸な青春だというべきであります。
 十代後半からは、いよいよ第二の人生が始まります。それとともに、思春期特有の心の嵐が襲ってくる。現実のすべてをなげうって、衝動のままに身をまかせたくなることもありましょう。理想と現実とのあまりの落差に、生きる意欲を失うことがあるかもしれない。
 しかし、そこで負けてはならない。そのようなときにこそ、断固として自身に挑戦しゆく一人一人であっていただきたい。よき先輩、よき友人の励ましに謙虚に耳をかたむけて、自分の心と徹底して戦いぬいていただきたい。このとき、思春期の苦悩は、自身の創造的な人生を築く、かけがえのない糧となりゆくことでしょう。
 心優しくして、何ものをも恐れぬ人。誠実にして、勇気の人。礼儀正しくして、邪悪には敢然と立ち向かう人。どうか、お一人お一人が、このダイナミックな悔いなき人生を送っていかれますよう、心から念願してやみません。
 卒業の皆さま方のご健康をお祈りし、晴れやかな前途に栄光あれ、幸多かれと申し上げ、私のお祝いの言葉とさせていただきます。
9  関西創価中学・高等学校 第八回卒業記念謝恩会〈昭和58年3月14日〉
 強く聡明に自身の成長を
 教育について、もっとも理想的で、多くの指導者を出したのはイギリスです。そのイギリスの著名校のほとんどは私立です。それは、私立学校は、創立の精神に基づいて思う存分に、創立者、教育者と生徒が一体になっていくことができるからです。
 しかし、今日の社会には、理想的な私立の学校をつくろうとか、教育をしようという流れがなくなってしまいました。そうなると、たしかに一部の才能は伸びるが、全体人間として調和のとれた教育はむずかしく、知識偏重の人間が多くなってきます。それが今日、教育が全面的に行き詰まってしまった理由です。
 そのような教育界にあって、創価学園は、後輩のためにも、本当に大切で重要な金字塔であると確信しております。
 社会に一歩出ると、数々の厳しいことがあります。そのことをよく認識しておかないと、大変な目にあってしまいます。そのためにも、自分を強くし、また厳しい社会を聡明に悠々と見極めながら、自分自身の成長と幸福の大成の山に、一歩一歩、登っていただきたいと思います。
 卒業生の皆さんは、どうか母校である学園を心から愛し、大切に守っていただきたいのです。皆さんが、これから十年、二十年と、順調に成長することを毎日祈っております。これからはいろいろなことがあると思うが、負けてはいけません。どんなことがあっても、負けてはいけない。自分で生きることです。
 また、親に心配をかけてはいけません。親の苦しみというものを、痛いほど自分で感じられるようになったときに、その人は立派な人間になれるのです。それを感じられないような人は、人間として何の資格もありません。親の痛みを自分自身で感じられる人が、人間として偉大な人なのです。
10  創価中学・高等学校 第十三回卒業式(メッセージ)〈昭和58年3月16日〉
 魂のこもった悔いない青春を
 開校記念のこの佳き日に、わが学園を巣立ちゆく諸君、そしてご両親に、心からお祝いを申し上げます。
 諸君のほとんどは、これから高校、そして大学へと進学してまいります。その新たな学舎に、新たな決意で臨もうとする諸君にとって、平凡ながらもっとも大切だと思うことを、私は申し上げておきたい。
 その一つは、「ともかく自分を大切にする」ということであります。「自分」という一個の生命は、他のだれともかえられない尊い存在であります。自分を大切に、とはだれしも思うことでありますが、それと裏腹に、結果として自分を粗末にしている例があまりに多い。
 ドイツのある作家は「魂のこもつた青春は、決してそうたやすく滅んでしまうものではない」(ハンス・カロッサ『指導と信徒』高橋義孝訳、『現代世界文学全集28』所収、新潮社)と述べております。鍛えのない、わがまま放題の青春はもろく、はかない。諸君はどうか、いかなる場合にも自分を誇りに思い、一瞬一瞬に充実感を覚えるような、「魂のこもった」悔いない青春を生きぬいていっていただきたい。
 次に、「ともかく親を大切に」ということであります。自分の尊さがわかれば、それだけ親の恩も深く感じられるはずであります。「子をもって知る親の苦労」、あるいは「親孝行したいときには親はなし」というのも、若いうちは、なかなか親のありがたさがわからないがゆえでありましょう。
 では、親を大切にするとはどういうことか。端的にいえば、余計な心配、苦労をかけないということだと思う。それがまた、諸君が大人へと自立する責任の証にもなる。どうか諸君は、いつ、いかなるときにも、親の痛みをわが痛みとしていける思慮深い生き方をしていただきたい。
 次に、「友を大切にする」ということであります。これは、自分を大切にすることと相反するようでありますが、決してそうではない。ギリシャの哲学者であるゼノンは「朋友とは自分以外の自己をいう」という言葉を残しました。これは、友人もまた、自分と同じく大切にすべきであるという意味であります。よき友をもつことは、どれほど自分自身の歴史に思い出深い金のページを残しゆくものであるかわからない。
 最後に「『学は光』であるという一点を忘れてはならない」と申し上げたい。受験制度への反動からか、このところ、ともすれば学ぶ意欲、姿勢がおろそかにされる傾向が見られますが、私は残念でならない。学ぶことは、永遠に自分の権利であることを決して忘れてはならない。ゲーテは、こういつております。
  「三千年の歴史から
   学ぶことを知らぬものは
   知ることもなく、やみの中にいよ、
   その日その日を生きるとも」(『ゲーテ格言集』高橋健二訳編、新潮文庫)
 学ぶ姿勢なき人生とは、目的観もなく、波の間に間に、その日暮らしを続ける、木の葉のようにはかないものであります。むしろ諸君の人生は、どんなに風雨が襲いかかろうともびくともせぬ、大樹のごとき、根を張った生き方であっていただきたいと申し上げ、私のメッセージといたします。

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