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日蓮大聖人・池田大作

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(三)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

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9  それは、革命によって掻き立てられたシェニエの希望と興奮が、その後の醜い党派間抗争によって打ち砕かれた、その幻滅と警告をうたったものであった。とことんまで革命の根本精神に忠実であろうとした彼は、革命の秩序を混乱させる、民衆の不当な煽動者こそが真の敵であることを知っていた。
 (僕にとって革命とは実際には、開始することだけだったのか。ああ、この友愛の光にみちた大叙事詩と、低劣なる人間の狭量、弱さ、策謀、醜さと……)
 シェニエは、牢舎の天井の黒い闇を見つめて、大きく嘆息した。
 シェニエが革命ジャーナリストとして登場したのは、一七九〇年八月、「ジュルナル・ド・パリ」紙に寄せた「フランス人民に告ぐ――真実の敵について」と題する論文であった。その中でシェニエは、長い圧制のあとのやむをえない暴力革命の正当性を認めはした。だが、それに続く動揺にかわる新秩序をただちに構築しゆくこと、それには、政治的な憎悪や非難の応酬が深刻化してはならず、なによりも非合法的な暴力を排することを要求した。
 「……この種の猜疑、騒擾、暴動をかくまで高揚せしめるものは、われわれの中のいったい何なのか。この問題を考えるとき、ペンを持つ者の圧倒的な意見によって大いに増幅され、培われ、支えられるという事実を、われわれは無視することはできない。この革命中になされる善悪の全てはペン先次第なのである。われわれを脅かす害悪の源泉を、その点にこそ見いだすのである。われわれは、そこで、邪悪な意見を吐く文筆家の利益なるものを追跡していくと、大部分はあまりにもあいまいな人々であり、一派の領袖たるにはあまりにも不適当であることが明白になるだろう。彼らの動機が、金か、あるいはばかげた確信であると結論できるであろう」
 高官への暴力、旅行の禁止、家宅捜索、あるいは思想弾圧の不当を述べて、やがては「血への渇き、他人の苦痛を見たいという恐るべき人間の欲望を掻き立てて、“裁判と死を与える遊び”に人々がふけるようになろう」とも警告した。その予見がどれほど的確なものであったかは、やがて証明されるところとなる。
 そして、シェニエは「賢明にして有徳なる市民の連帯のうちに正義と良識と理性の声を高めゆくならば、悪意と愚昧の叫びを鎮圧することができる」と結論づけたのであった。
 これが、シェニエの最初の政治論文であった。そして、ここに示された見解と、歯に衣を着せない筆鋒を、シェニエは最後までつらぬいた。自分にとって、革命勃発後の最大の関心事は、フランスに平穏と秩序と調和とをすみやかに回復することであり、革命本来の「自由」「平等」「正義」「友愛」の光を、フランスに、否、全世界に輝きわたらせることであった。その秩序を破壊する煽動者こそが真の“敵”であるとして、攻撃の筆を休めなかった。
 カミーユ・デムーランが、さっそくシェニエの論文を批判した。「われわれを、彼がどう扱っているかを見たまえ」と。デムーランは、民衆によるバスチーユ襲撃の火をつけた街頭演説で知られる、過激な政治ジャーナリストであった。
 シェニエは、痛快だった。それは、「真の敵」が誰かを名指して書いたわけでもないのに、「それは自分のことだ」と名乗り出たようなものだったから。だが、シェニエは、デムーランに対してあえて反論しなかった。そして、自分のノートに、こう記した。
 「文意を曲げ、ペンの力を利用して記事を書いている人を攻撃しても、真実をそこねるだけである。その議論を論破しようとすることは、その人間があまりにも危険であることが知られているがゆえに、無益である」
 一七九一年四月には「党派心に関する反省録」という論文を発表している。
 「有徳かつ自由な人、真実の市民とは、真実しか語らず、真実を常に口にし、真実を全て言う者のことである。そして、勇気をもち、恐怖の意見に耳をかさない者が、良き市民である」
 「二年間も乱用された密告。しかし、それで何が発見されたろうか。どんな犯罪が明らかになったのか。悲しい不名誉を、むだ骨のうちに見るのみだ」
 同年八月末、立法議会の成立を前にして、シェニエは、“人民へのへつらい者”を批判した。
 「多弁で、狡猾な人々――いつも不平にみちてすぐに錯乱してしまう市民階級の熱情を目覚めさせ、予見し、煽り立てる準備のできている人々に、われわれは事欠かない。彼らは、これら市民に、法律への従順は、がまんのならない隷属であると説く。“君らの自発意思のみが法律である”と語る。あいまいな獰猛な非難によって、市民の羨みにおもねるのである。そして、彼らの前に膝を屈することを拒む者は全て、現下の中傷者達が流行させている最も恐るべき“品定め”によって、撃たれることになる。彼らは、不遜にも“人民の擁護者”と自称している」
 シェニエの攻撃は、明らかに民衆の煽動者としてのジャコバン派に向けられていた。彼らこそが、フランスを揺るがしている無秩序の根源である、と。
 「人民へのへつらい者は、うそと軽蔑のうちに、専王時代をさらに上回る悪を行っている」
 こうした表現は、自ら処刑台へサインを送るにもひとしかった。だが、シェニエは一歩もひかず、その筆鋒は、ますます先鋭化していった。フランスを愛するがゆえに、祖国が混乱から脱け出て、革命の真実の勝利をかちうるために、何ものをも恐れず、正義と高貴の道をひたすら突き進んだ。自分こそが真実の愛国者・真実のフランス人との信念は、少しも揺るがなかった。
 彼は今や、いかなる党派にも属していなかった。ド・パンジュやトゥルデンヌといった少数の友人をのぞけば、革命ジャーナリストとしては孤立した、孤独な戦士であった。
 恐怖政治の組織者の一人であるコロー・デルボワをはじめ、有力な政治家であるブリソー、ダントン、ペティヨンらが、シェニエの主な論敵となった。コロー・デルボワは、ジャコバン・クラブの演説で、シェニエを「スパイ」「宦官」「力の乏しい散文家」「国民の敵」と、口を極めてののしった。
 一七九二年八月には、シェニエが論城としていた「ジュルナル・ド・パリ」が発刊停止処分となり、反革命容疑者の家宅捜索は、シェニエの身辺にも及んだ。
 この月のうちに三千人が逮捕され、月末には反革命ジャーナリスト達の最初の処刑が執行された。
 シェニエは一時、パリを逃れてノルマンディー地方のルーアンやルアーブルに身を潜める。その一カ月の間に、重大事件が次々と起きた。
 八月十日、民衆が蜂起して、国王ルイ十六世の居城チュイルリー宮殿を襲い、多数のスイス人衛兵を虐殺した。辛うじて難を逃れた国王一家も、十三日から、タンプル塔に幽閉される。
 議会はなおジロンド党が支配していたが、この民衆蜂起とともに成立した山岳党のパリ・コミューヌの是非をめぐって、両党派間の対立は一挙に頂点に達した。
 九月二日から、牢獄での大虐殺が始まった。山岳党のマラーとダントンの手引きによるものだった。六日間で千三百人の囚人がパリ各所の牢から引き出されては、飢えた豺狼のような殺人集団に襲いかかられた。
 同月二十日、議会は立法議会から国民公会へと変わり、その翌日、王政廃止が宣言され、その次の日から共和国第一年が始まることとなった。
 ジロンド党が、マラー、ダントン、ロベスピエールへの激しい攻撃を繰り返していた。
 十一月七日、国民公会は、国王を公会の場で裁けると結論し、十二月十一日から、議場において国王の審問が始まった。
 シェニエが再びパリに姿を現したのは、国王ルイ十六世を擁護するためであった。シェニエは有力者や、スペイン大使らの間を奔走した。国王の処遇については、シェニエは国王の完全な無罪を主張する弁護人にも反対であった。しかし、有罪であっても、退位のみにとどめるべきであると考えた。
 その裁判も、憲法に照らして真の主権者である人民自身にゆだねられるべきであるとして、国民公会での裁判の公正さを疑問とした。もし、公会が国王を極刑に処すれば、新たな混乱を招くだろうと深く憂慮したのである。
 一七九三年一月十七日、ルイ十六世の死刑を、国民公会は決議する。わずか一票の差の多数決によってであった。
 二十一日、革命広場で、そのギロチンによる処刑が執行された。
 シェニエの失望は大きかった。彼は、革命ジャーナリストとしての自分の使命も終わった、と考える。国王処刑とともに、シェニエの政治的な経歴も終わるのである。シェニエがヴェルサイユに身を潜めたのは、国王処刑から三カ月後のことであった。
 その二年余にわたる、苛烈な戦いの日々――シェニエの胸には、むしろ満足感が広がっていた。
 獄舎の長い夜が、明けようとしていた。扉の切り窓から、薄明かりが射し込んでいた。やがて、厳しい尋問が始まるであろう。苛酷な時間が続くであろう。
 シェニエは、明け方の僅かな時間を、深く眠った。

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