Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(三)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
4  突然、ド・パンジュが、顔をこわばらせた。
 「しっ、静かに! 誰か来るぞ」
 シェニエも、表通りに聞き耳をたてた。
 「少し離れたところに、馬車がそっととまる音がしたのだ。ほら、足音が近づいてくる」
 ばらばらと乱れた足音が近づき、建物の前でぴたりとやんだ。
 「アンドレ、すぐ裏口から避難しよう! 追っ手かもしれない」
 ド・パンジュがそう言い終わらないうちに、鉄の扉をどんどん叩く音とともに、どなり声が聞こえた。
 「開けろ、開けろ! この中に、シェニエが潜んでいるはずだ。開けないと、扉をぶち壊しても、入るぞ!」
 その瞬間、シェニエは覚悟を決めていた。なぜか自分一人だけの名が求められていることが、幸いにも思えた。二人で逃げれば、二人ともつかまるかもしれない。
 この急場では、犠牲者を自分一人にとどめることこそ賢明だ。自分が、ド・パンジュの逃走のために、時間をかせぐのだ――。
 シェニエは、とっさにそう判断すると、ド・パンジュを秘密の裏口へとせかした。
 何気ない壁の一部が、強く押すと外へ通ずる出口になるのだった。
 「アンドレ、一緒に逃げよう、早く!」
 ド・パンジュは、シェニエの手を引いて裏口から抜け出ようとした。その手をふりほどいたシェニエは、抗うド・パンジュの体を渾身の力でぐいと押し出しながら、言った。
 「さよなら、フランソワ。これが、最後の別れと決まったわけでもない。きっと、いつかまた会える日がある。それまで、しばしのお別れだ。さようなら、わが友!」
 名残の言葉をそれだけ言うと、シェニエは、すばやく壁を元に戻して裏口を閉ざし、それから正面の入り口へと、ゆっくりと歩いた。
 扉を開けると、外には、猛々しく肩をいからせた数人の男の姿が、部屋の内から漏れ出る薄明かりの中に浮かんだ。いずれも、毛糸の赤い帽子に、カルマニョルという短い上衣を着たサン・キュロットのいでたちで、槍や銃を手にしている者もいる。
 「君が、アンドレ・シェニエか? 私は、この地区の警備を務めている市民のグエノという者だ。パシー地区委員会から、君を、反革命容疑者として逮捕するよう指令をうけている。一緒に、委員会まで来てもらいたい」
 いつか来るべき時が来たのだ。
 シェニエは、いささかも動揺の色を見せずに言い放った。
 「いかにも僕が、アンドレ・シェニエだ。グエノ君、君の来意はよく分かっている。さあ、すぐに僕を連れて行きたまえ」
 ド・パンジュに累が及ばぬよう、グエノと名乗る男とその徒党を、自分にひきつけて、一刻も早くこの場を去らせる必要があった。
 「よろしい」
 グエノらは、部屋へ踏み込んだものの、簡素で狭いその場所に人影らしいもののないことを認めると、シェニエを取り囲んで表へ出た。時ならぬ物音に、周囲のアパルトマンの高い窓のいくつかがぱたんと開いて、明かりとともに住民の顔がのぞいた。
 シェニエは、近くにとめてあった馬車に乗せられた。その闇の中に消えていく車輪の音を、物陰から、目にいっぱい涙を浮かべて去りがたく見送るド・パンジュの黒い影があった。
5  ひとまず、シェニエは、パシー地区委員会の建物の一室に拘留された。容疑者がつかまると、いつもこの部屋が使われるのだろうか、片すみに狭い木のベッドが置かれてある。そこに、シェニエは疲れた体を横たえた。入り口の小さな扉の切り窓からは、廊下側からほの暗い明かりが射し込んでおり、そこから、時折、赤い帽子をかぶった、見張りらしい男の顔がのぞいた。
 (ド・パンジュは、うまく逃げてくれたろうか……)
6  革命の渦中に身を投じてから、四年がたっていた。シェニエの熱いまぶたに、それらの想い出が次々と浮かんでは消えていく。
 あの砂を噛むように無味乾燥な、ロンドンで過ごした日々――。一七八七年十二月から、シェニエは、ド・パンジュ家の紹介により、ロンドンのフランス大使館で、書記官として二年間働いた。そこでの生活は、まるで国外追放にでもあったような気分だった。懐かしいフランスの自然も、友人も、温かな家庭からも遠く、ただ文書の山と、分かりにくい帳簿の処理に追われた。英語をしゃべるのも苦手だった。いつも、フランスへの郷愁にかられていた。
7  とりわけ、美しい、母親エリザベートの面影――。父親は、モロッコ領事を務めるなどで家を留守にしがちだったから、シェニエに対する両親の影響は、母親の方が強かった。才気にあふれる彼女は強いギリシャ趣味の持ち主で、話すことも、衣裳も、ギリシャのものが多かったし、家の中にはギリシャ産の調度や骨董品があふれていた。やがて、母がパリで開くサロンに、上流階級の人々やインテリが集まるようになったが、そこでの話題も、とかくギリシャ趣味のことに落ち着くことが多かった。シェニエが、ダヴィッド――新古典派の巨匠とうたわれるに至る大画家――を知ったのも、母のサロンであった。シェニエの生地がコンスタンチノープルであったこともあり、すでに幼い頃からヘレニズム風に染まって育ったといえる。コレージュ・ド・ナバールでギリシャ・ラテン語の勉強に精を出し、ギリシャ古典詩や東方の文学に興味をもち、その影響が詩の中に強く見られるのも、そのためであった。
 ロンドン生活の鬱屈をなぐさめてくれたものは、やはりギリシャ、ラテン、ペルシャの詩や文学の書を読みあさり、詩作にふけることであった。
 時折、舞い込んでくる友からの便りも楽しみだった。
 あるときの来信が、シェニエの心に火をつけた。
 「とにかく、君の引っ込み思案は追い散らしたまえ。書くために生まれついた君よ。専心、ペンをとりたまえ。それこそが世に遺る唯一のものなのだ。いつも君が求められているところへと帰ってくれたまえ」
 シェニエは、なによりも詩人であって、政治家の肌合いではなかった。古代の世界や、自然や、友人達を想い、静かに甘美な夢にふけることが好きだった。だが、詩人であるがゆえに、その体内には熱情家の血も潜んでいた。
 長い王政に、倦み疲れきった祖国の人々。その魂を救うべき教会も、権威を失っていた。シェニエが、ロンドンへ行く気になったのも、高まる経済的・社会的混乱を収拾しえない王権政府に、フランスの変革という自分の夢を失ったことが手伝っていたのである。彼は、愛惜の思いを込めて、海の彼方からフランス社会の危機的な状況に鋭い目を注いだ。
 一七八九年五月、三部会招集の動きが始まり、やがて六月十七日に国民議会の成立へと至る。同月二十日、僧侶・貴族・市民の三つの身分が結束しての、いわゆる「球戯場の誓い」などの急速な改革の報が、ロンドンにも届く。二十七日には、国王ルイ十六世も三つの身分が合流した国民議会を認めることになり、ここに国民主権へと大きく歴史は転換した。このとき革命は、法律の面からは達せられたのであった。
 それは、長い冬、身をこごらせていた全ての生命が息吹き始めようとする、大自然の目覚めにも似ていた。絶対王制の歴史は、ついに終局を迎えたのである。シェニエの夢は、蘇った。
 胸の高鳴りをおさえきれないような感動を覚えながら、目くるめく事態の推移に、異国の都で想いを馳せた日々――。
 シェニエは、フランスの変革が、抑圧されているあらゆる国々を震撼させずにはおくまいとみた。人間解放の思想が、民族の解放におもむくことは間違いあるまいと考えた。あたかも大地を一新するがごとくに、ただちにヨーロッパ全体の新時代がもたらされるものと信じた。
 彼は、革命後のフランス社会の体制を、自分なりに思索し、結論していた。
 ――公正なる法、人間的なる法のもとに、自由と、法の上の平等、権利の平等が確立され、寛容と正義と徳がいきわたるような社会。政治の運営は、憲法を根本とし、その憲法は、国民が代表する議会がつくり変更もできること。そして、それらは王と人民との協調によって可能である。すなわち、人民主権のもと、王も市民であるとともに、フランスの愛と栄光と最高の誉れの友であり、人民とは緊密な信頼と誓いの絆に結ばれること。一方、人民の側は、愛国心の中に固く団結し、祖国と法と王とに忠誠であること――。
 すなわち、それは立憲王制主義の立場に立つ、一つのユートピアであった。そして、革命の混沌たる状況下では、ユートピアなるがゆえに、戦闘的な思想たらざるをえない宿命をもっていた。
 シェニエは、この政治革命が、“混乱もなく、悲惨もなく”達成されることを願った。
 八月四日には、貴族・聖職者の特権を廃止する諸法令が決議された。ここに、封建制は破壊され、法の前における万人の平等が確立された。
 二十六日には、「人間と市民の権利の宣言」――いわゆる「人権宣言」が採択された。
 だが、これと相前後して、革命は騒乱の様相を深くしはじめる。
 少し前の七月十四日には、パリの民衆がバスチーユ牢獄を襲撃して陥落させるという大事件が起きた。革命は、ついに民衆の決起を招き、それは燎原の火のごとく全土に波及していったのである。地方では、おおむね無血革命であったが、パリでは民衆による騒擾が起き始めていた。
 十月には、パリの女性達がヴェルサイユ宮殿へデモ行進し、流血をみた。
 こうした事件が、虚実ないまぜにした情報となって、ロンドンに届く。シェニエは、それら片々たる混乱の報せに、心を痛めた。
 「十九日に、パリに帰りました。お父さん。途中の船旅は、かつてない沈痛のものでした。僕の心は、パリへと急き立てられました。全パリが燃えているとの至急便がパリから来たのです。パリじゅうに、早鐘が鳴っている、と……」
 一七八九年十一月二十四日、シェニエがパリに帰ってすぐ父親ルイ・シェニエ宛に書き送った書簡の一部である。バスチーユ陥落から四カ月が過ぎていた。
 そのとき、シェニエは、二十七歳であった。
 ――シェニエは、更に革命騒乱の地パリを踏んでから二年有余にわたる自分の闘争を心の中にたどった。
 パリの路上に出て、すぐに気がついたのは、民衆を煽動して、革命の秩序を乱している者達の存在であった。たくさんの新聞が、パリの街上にまき散らされる。そこには、政治家達の政見や、議会のニュースが載っており、有力な政治家は、みなこの種の新聞をもっていた。世論は、それによって煽動されていることを、改めて自分の目で確かめた。民衆がどこに向かって走りだすかは、これら革命ジャーナリズムによるところが大きい。民衆の圧力を自派に利用しようとする偽善と、敵意や憎悪ばかりが目についた。
 シェニエは、このみずみずしい革命の精神が、やがて醜い党派争いと暴力の汚泥にまみれていく危険を直観したのであった。
 自分も、ペンをとった。革命の逸脱と暴政を、激しく攻撃した。詩人としては無名なのに、一かどの革命ジャーナリストとして、その“散文”が知られるようになった。発表した二十余りの“反革命的”な論文――。それらが当局に追及されることになるだろう。
 シェニエは、パシー地区委員会の一室の硬い木のベッドの上で、いつしかまどろみ始めた。その心の中には、「球戯場の誓い」と題して画家ダヴィッドに捧げた自作の詩が、切れぎれに浮かんでいた。ジャコバン派の礼讃者であるダヴィッドとは、今や政治的には対岸に立つ間柄であったが――。
8   ……………………
  おお 二度生まれた人民よ!
  一度は古い人民 一度は新しい人民!
  歳月を経て若がえった幹よ!
  墓の灰の中から蘇り出た不死鳥よ!
  そして、さあ貴男らも同じだ松明を掲げる人々
  我らの運命を指し示してくれる貴男らよ!
  パリは頼みの手をさしのべる
  我らが選んだ申し子達に!
  人民の父達に法の構築者に!
  貴男らは確固たるその手で
  全ての基本的な人権のうえに
  古くて純粋な人間の法のうえに
  自然とともに生まれた神聖なる権利のうえに
  永遠とともに生きてきたそれらのうえに
  人間のための荘厳なる法典をうちたてることもできるのだ!
  貴男らは全てを制圧し 身を縛られる束縛もない
  全て障害は貴男らの攻撃のもとに滅んだ
  かくして頂上をきわめた人々よ
  輝かしき貴男らの仕事は常に謙虚であれ
  恩人らよ、我らに報告すべきことは山ほどある
  手綱をひきしめよ 他者も自分も
  へりくだることを知れ
  ……………………
  人民よ! 全てが我らに許されるとは思いすごしだ
  君らの貪欲なへつらい者を怖れよ
  おお 主権者たる人民よ! 君の寛大な耳もとで
  凡百の口達者な死刑執行人が君の友だと名乗り出ている
  彼らは人殺しの火を口で煽りたてているのだ
  ……………………
9  それは、革命によって掻き立てられたシェニエの希望と興奮が、その後の醜い党派間抗争によって打ち砕かれた、その幻滅と警告をうたったものであった。とことんまで革命の根本精神に忠実であろうとした彼は、革命の秩序を混乱させる、民衆の不当な煽動者こそが真の敵であることを知っていた。
 (僕にとって革命とは実際には、開始することだけだったのか。ああ、この友愛の光にみちた大叙事詩と、低劣なる人間の狭量、弱さ、策謀、醜さと……)
 シェニエは、牢舎の天井の黒い闇を見つめて、大きく嘆息した。
 シェニエが革命ジャーナリストとして登場したのは、一七九〇年八月、「ジュルナル・ド・パリ」紙に寄せた「フランス人民に告ぐ――真実の敵について」と題する論文であった。その中でシェニエは、長い圧制のあとのやむをえない暴力革命の正当性を認めはした。だが、それに続く動揺にかわる新秩序をただちに構築しゆくこと、それには、政治的な憎悪や非難の応酬が深刻化してはならず、なによりも非合法的な暴力を排することを要求した。
 「……この種の猜疑、騒擾、暴動をかくまで高揚せしめるものは、われわれの中のいったい何なのか。この問題を考えるとき、ペンを持つ者の圧倒的な意見によって大いに増幅され、培われ、支えられるという事実を、われわれは無視することはできない。この革命中になされる善悪の全てはペン先次第なのである。われわれを脅かす害悪の源泉を、その点にこそ見いだすのである。われわれは、そこで、邪悪な意見を吐く文筆家の利益なるものを追跡していくと、大部分はあまりにもあいまいな人々であり、一派の領袖たるにはあまりにも不適当であることが明白になるだろう。彼らの動機が、金か、あるいはばかげた確信であると結論できるであろう」
 高官への暴力、旅行の禁止、家宅捜索、あるいは思想弾圧の不当を述べて、やがては「血への渇き、他人の苦痛を見たいという恐るべき人間の欲望を掻き立てて、“裁判と死を与える遊び”に人々がふけるようになろう」とも警告した。その予見がどれほど的確なものであったかは、やがて証明されるところとなる。
 そして、シェニエは「賢明にして有徳なる市民の連帯のうちに正義と良識と理性の声を高めゆくならば、悪意と愚昧の叫びを鎮圧することができる」と結論づけたのであった。
 これが、シェニエの最初の政治論文であった。そして、ここに示された見解と、歯に衣を着せない筆鋒を、シェニエは最後までつらぬいた。自分にとって、革命勃発後の最大の関心事は、フランスに平穏と秩序と調和とをすみやかに回復することであり、革命本来の「自由」「平等」「正義」「友愛」の光を、フランスに、否、全世界に輝きわたらせることであった。その秩序を破壊する煽動者こそが真の“敵”であるとして、攻撃の筆を休めなかった。
 カミーユ・デムーランが、さっそくシェニエの論文を批判した。「われわれを、彼がどう扱っているかを見たまえ」と。デムーランは、民衆によるバスチーユ襲撃の火をつけた街頭演説で知られる、過激な政治ジャーナリストであった。
 シェニエは、痛快だった。それは、「真の敵」が誰かを名指して書いたわけでもないのに、「それは自分のことだ」と名乗り出たようなものだったから。だが、シェニエは、デムーランに対してあえて反論しなかった。そして、自分のノートに、こう記した。
 「文意を曲げ、ペンの力を利用して記事を書いている人を攻撃しても、真実をそこねるだけである。その議論を論破しようとすることは、その人間があまりにも危険であることが知られているがゆえに、無益である」
 一七九一年四月には「党派心に関する反省録」という論文を発表している。
 「有徳かつ自由な人、真実の市民とは、真実しか語らず、真実を常に口にし、真実を全て言う者のことである。そして、勇気をもち、恐怖の意見に耳をかさない者が、良き市民である」
 「二年間も乱用された密告。しかし、それで何が発見されたろうか。どんな犯罪が明らかになったのか。悲しい不名誉を、むだ骨のうちに見るのみだ」
 同年八月末、立法議会の成立を前にして、シェニエは、“人民へのへつらい者”を批判した。
 「多弁で、狡猾な人々――いつも不平にみちてすぐに錯乱してしまう市民階級の熱情を目覚めさせ、予見し、煽り立てる準備のできている人々に、われわれは事欠かない。彼らは、これら市民に、法律への従順は、がまんのならない隷属であると説く。“君らの自発意思のみが法律である”と語る。あいまいな獰猛な非難によって、市民の羨みにおもねるのである。そして、彼らの前に膝を屈することを拒む者は全て、現下の中傷者達が流行させている最も恐るべき“品定め”によって、撃たれることになる。彼らは、不遜にも“人民の擁護者”と自称している」
 シェニエの攻撃は、明らかに民衆の煽動者としてのジャコバン派に向けられていた。彼らこそが、フランスを揺るがしている無秩序の根源である、と。
 「人民へのへつらい者は、うそと軽蔑のうちに、専王時代をさらに上回る悪を行っている」
 こうした表現は、自ら処刑台へサインを送るにもひとしかった。だが、シェニエは一歩もひかず、その筆鋒は、ますます先鋭化していった。フランスを愛するがゆえに、祖国が混乱から脱け出て、革命の真実の勝利をかちうるために、何ものをも恐れず、正義と高貴の道をひたすら突き進んだ。自分こそが真実の愛国者・真実のフランス人との信念は、少しも揺るがなかった。
 彼は今や、いかなる党派にも属していなかった。ド・パンジュやトゥルデンヌといった少数の友人をのぞけば、革命ジャーナリストとしては孤立した、孤独な戦士であった。
 恐怖政治の組織者の一人であるコロー・デルボワをはじめ、有力な政治家であるブリソー、ダントン、ペティヨンらが、シェニエの主な論敵となった。コロー・デルボワは、ジャコバン・クラブの演説で、シェニエを「スパイ」「宦官」「力の乏しい散文家」「国民の敵」と、口を極めてののしった。
 一七九二年八月には、シェニエが論城としていた「ジュルナル・ド・パリ」が発刊停止処分となり、反革命容疑者の家宅捜索は、シェニエの身辺にも及んだ。
 この月のうちに三千人が逮捕され、月末には反革命ジャーナリスト達の最初の処刑が執行された。
 シェニエは一時、パリを逃れてノルマンディー地方のルーアンやルアーブルに身を潜める。その一カ月の間に、重大事件が次々と起きた。
 八月十日、民衆が蜂起して、国王ルイ十六世の居城チュイルリー宮殿を襲い、多数のスイス人衛兵を虐殺した。辛うじて難を逃れた国王一家も、十三日から、タンプル塔に幽閉される。
 議会はなおジロンド党が支配していたが、この民衆蜂起とともに成立した山岳党のパリ・コミューヌの是非をめぐって、両党派間の対立は一挙に頂点に達した。
 九月二日から、牢獄での大虐殺が始まった。山岳党のマラーとダントンの手引きによるものだった。六日間で千三百人の囚人がパリ各所の牢から引き出されては、飢えた豺狼のような殺人集団に襲いかかられた。
 同月二十日、議会は立法議会から国民公会へと変わり、その翌日、王政廃止が宣言され、その次の日から共和国第一年が始まることとなった。
 ジロンド党が、マラー、ダントン、ロベスピエールへの激しい攻撃を繰り返していた。
 十一月七日、国民公会は、国王を公会の場で裁けると結論し、十二月十一日から、議場において国王の審問が始まった。
 シェニエが再びパリに姿を現したのは、国王ルイ十六世を擁護するためであった。シェニエは有力者や、スペイン大使らの間を奔走した。国王の処遇については、シェニエは国王の完全な無罪を主張する弁護人にも反対であった。しかし、有罪であっても、退位のみにとどめるべきであると考えた。
 その裁判も、憲法に照らして真の主権者である人民自身にゆだねられるべきであるとして、国民公会での裁判の公正さを疑問とした。もし、公会が国王を極刑に処すれば、新たな混乱を招くだろうと深く憂慮したのである。
 一七九三年一月十七日、ルイ十六世の死刑を、国民公会は決議する。わずか一票の差の多数決によってであった。
 二十一日、革命広場で、そのギロチンによる処刑が執行された。
 シェニエの失望は大きかった。彼は、革命ジャーナリストとしての自分の使命も終わった、と考える。国王処刑とともに、シェニエの政治的な経歴も終わるのである。シェニエがヴェルサイユに身を潜めたのは、国王処刑から三カ月後のことであった。
 その二年余にわたる、苛烈な戦いの日々――シェニエの胸には、むしろ満足感が広がっていた。
 獄舎の長い夜が、明けようとしていた。扉の切り窓から、薄明かりが射し込んでいた。やがて、厳しい尋問が始まるであろう。苛酷な時間が続くであろう。
 シェニエは、明け方の僅かな時間を、深く眠った。

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