Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

然今非実滅度。而便唱言。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
6  わが弟子よ、堂々たる自分を作れ
 この経文の精神に照らせば、いつも師匠と一緒にいることを願うだけが、弟子の生き方ではない。師の教えをわが生命に抱き締めて、「自立の実践者」として全力で戦うこと。そこにこそ、真の弟子の道があるのです。
 戸田先生の門下の中にも、先生の広大な慈愛に甘えるだけの人もいた。先生のそばにいるからと、師の権威を利用して″われ偉し″と倣慢に振る舞う人物もいた。先生の事業が苦境に陥るや、先生を悪しざまに罵って去って行く者もいた。
 彼らは皆、「便起僑恣」(騎りや、ほしいままの心を起こした)の姿です。会い難き師に会えたという感謝の心がなかった。いわば、「難遭の想」「恭敬の心」ではなかった。
 「戸田先生ほど偉大な師はいない。私は、そのことを最も深く知って、峻厳なる「師弟の魂」に生ききってきた。ゆえに今日の、何ものにも負けない私がある。そして戸田先生のど構想どおりの、否、それ以上の、大いなる学会の発展があるのです。この厳然たる闘争と凱歌の歴史を、とくに若き青年部の諸君には、深く生命に刻んでもらいたいのです。
 要は、師のすべてを受け継ぐ決心です。祈りです。大闘争です。この経文で、釈尊はその根本の精神を教えようとしているのです。「甘えるな」「求めぬけ」という釈尊の教えは、厳しいと言えば厳しい。しかし同時に、「皆を仏と同じ境涯に」という大海のごとき慈悲の心が、われわれの心に深く迫ってくるではありませんか。″わが弟子たちよ、堂々たる自分を作れ″──これが人類の大指導者・釈尊の魂の呼びかけなのです。
7  すばらしき生を実感するための死
 ところで、この入滅(死)ということを、われわれ自身に展開するならば、死は、生のすばらしさを実感し、充実した人生を歩むための「方便」と言えます。
 戸田先生は、この経文について、こう講義されました。
 「死なないということくらい、恐いことはないのであります。衆生も人間だけならまだいいのでありますが、みんな死なないのでありますから大変であります。
 猫も犬もネズミもタコもみんな死なない。これは困ったものであります。みんな死なないとしたら、どうなるか。叩かれでも、殺されても、電車にひかれでも、飯を食べなくても死なない。世の中は大変なことになります」
 「このように人間は死ななくても困ります。また死ぬ時がわかっているのも困ります。もし三日しか生命がないとしたら、講義の本なんか読んでいられません。
 ですから、人間はかならず死ななければならないものであって、死ぬ年月がわからないようにできているところに、世の中の面白さがあるのであります。これが妙なのであります。なればこそ、御本尊を拝むようにもなるのであります。じつに生命というものは面白いものであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 「生死」に対する、先生の偉大な達観が明かされています。
 死があるから、生のありがたさが実感できる。生きる醍醐味が味わえる──これは、まさに人生の″奥義″です。
 いたずらに死を恐れるあまり、病気や事故などに遭うとすぐに沈み込んだり、やけを起こしてしまうのは愚かです。しかしまた、″命知らず″とか″死など全然こわくない″というのも、私は信じません。それはたんなる蛮勇にすぎないからです。
 最もこわいものは、″心の死″です。よりよく生きようとする心を失うことです。″アメリカの良心″といわれたノーマン・カズンズ氏は、いくつもの難病を克服した経験から、結論しています。″人間の最大の悲劇は死ではない。生きながらの死である″と。(本全集第14巻収録)
 死は、誰人も避けられない。だからこそ、「瞬間瞬間を全力で生きよう」「人間らしく、自分らしく″今″を輝いていこう」と決める時、人間は、計り知れない力を出せる。また、そこから他者へのいたわりの心も持てるのです。ここに、生命の″妙″がある。″中道″がある。仏法は、この凝縮した生き方を教えた哲理なのです。

1
6