Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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然今非実滅度。而便唱言。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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5  仏法は「自立」と「人間尊敬」の教え
 仏法は、一面から言えば、民衆が「自立」するための哲学です。「自分自身の力で」「自分自身を作り上げていく」ことを教える法です。師匠に甘える心では、真実の境涯の向上は望めません。
 と同時に、仏法は「人間尊敬」の法でもある。人間としての最高の境涯を成就した仏を求める心と行動によって、同じ大境涯を自身の内にも開いていける。これが仏法の「師弟」の原理です。
 「自己の確立」と「他者への尊敬」──人間にとって、この両方を具えるのは大変な難事です。自立心が強い反面、他人を見下す傾向の強い人もいる。また、人を敬っていても、依存心が強く、自分をきちっと律することができない人もいる。どちらも未熟と言わざるを得ない。
 その点、私が友情を結んでいる世界の識者・指導者の方々は、その道、その分野で、偉大な努力を重ねられている″自立″の人です。しかも実際にお会いすると、じつに謙虚で、人間へのが尊敬の心に満ちた、すがすがしい方々です。一流の人格においては、「自己の確立」と「他者への尊敬」は見事に合致するものです。仏という、最高の「人格」を作り上げる道が、仏法なのです。現代社会の課題も、こうした「人間の教育」「人格の錬磨」にあると言ってよい。
 この段での経文にも「五欲に貧著し‥‥」とありますが、これなども、現代の「欲望社会」のありさまを鋭く射ぬいていると、私は思う。
 すなわち、高い理想や生き方を求めない社会は、しだいしだいに、さまざまな低い欲望に流されていってしまう。その大人社会の歪みは、そのまま子どもたちに悪い影響を及ぼします。病める現代社会の姿は、まさに「貧著五欲。入於憶想。妄見網中」そのものではないでしょうか。
 教育の荒廃をはじめ、今日のさまざまな社会問題の根本の原因は、この「五欲」をコントロールし、正しく指導していく哲学や理念がないことにある。
 減度についての釈尊の説法は、こうした人間の根源の″病″を治癒するためのものでした。低きて、低きへと流されやすい人間の心の傾向性を知り尽くした上で、その心を高く高く、ヒマラヤのごとき仏の境涯へと導いていくための教えなのです。「人間を鍛える」「人間を作る」──この一点に、仏法の大きな使命がある。
6  わが弟子よ、堂々たる自分を作れ
 この経文の精神に照らせば、いつも師匠と一緒にいることを願うだけが、弟子の生き方ではない。師の教えをわが生命に抱き締めて、「自立の実践者」として全力で戦うこと。そこにこそ、真の弟子の道があるのです。
 戸田先生の門下の中にも、先生の広大な慈愛に甘えるだけの人もいた。先生のそばにいるからと、師の権威を利用して″われ偉し″と倣慢に振る舞う人物もいた。先生の事業が苦境に陥るや、先生を悪しざまに罵って去って行く者もいた。
 彼らは皆、「便起僑恣」(騎りや、ほしいままの心を起こした)の姿です。会い難き師に会えたという感謝の心がなかった。いわば、「難遭の想」「恭敬の心」ではなかった。
 「戸田先生ほど偉大な師はいない。私は、そのことを最も深く知って、峻厳なる「師弟の魂」に生ききってきた。ゆえに今日の、何ものにも負けない私がある。そして戸田先生のど構想どおりの、否、それ以上の、大いなる学会の発展があるのです。この厳然たる闘争と凱歌の歴史を、とくに若き青年部の諸君には、深く生命に刻んでもらいたいのです。
 要は、師のすべてを受け継ぐ決心です。祈りです。大闘争です。この経文で、釈尊はその根本の精神を教えようとしているのです。「甘えるな」「求めぬけ」という釈尊の教えは、厳しいと言えば厳しい。しかし同時に、「皆を仏と同じ境涯に」という大海のごとき慈悲の心が、われわれの心に深く迫ってくるではありませんか。″わが弟子たちよ、堂々たる自分を作れ″──これが人類の大指導者・釈尊の魂の呼びかけなのです。
7  すばらしき生を実感するための死
 ところで、この入滅(死)ということを、われわれ自身に展開するならば、死は、生のすばらしさを実感し、充実した人生を歩むための「方便」と言えます。
 戸田先生は、この経文について、こう講義されました。
 「死なないということくらい、恐いことはないのであります。衆生も人間だけならまだいいのでありますが、みんな死なないのでありますから大変であります。
 猫も犬もネズミもタコもみんな死なない。これは困ったものであります。みんな死なないとしたら、どうなるか。叩かれでも、殺されても、電車にひかれでも、飯を食べなくても死なない。世の中は大変なことになります」
 「このように人間は死ななくても困ります。また死ぬ時がわかっているのも困ります。もし三日しか生命がないとしたら、講義の本なんか読んでいられません。
 ですから、人間はかならず死ななければならないものであって、死ぬ年月がわからないようにできているところに、世の中の面白さがあるのであります。これが妙なのであります。なればこそ、御本尊を拝むようにもなるのであります。じつに生命というものは面白いものであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 「生死」に対する、先生の偉大な達観が明かされています。
 死があるから、生のありがたさが実感できる。生きる醍醐味が味わえる──これは、まさに人生の″奥義″です。
 いたずらに死を恐れるあまり、病気や事故などに遭うとすぐに沈み込んだり、やけを起こしてしまうのは愚かです。しかしまた、″命知らず″とか″死など全然こわくない″というのも、私は信じません。それはたんなる蛮勇にすぎないからです。
 最もこわいものは、″心の死″です。よりよく生きようとする心を失うことです。″アメリカの良心″といわれたノーマン・カズンズ氏は、いくつもの難病を克服した経験から、結論しています。″人間の最大の悲劇は死ではない。生きながらの死である″と。(本全集第14巻収録)
 死は、誰人も避けられない。だからこそ、「瞬間瞬間を全力で生きよう」「人間らしく、自分らしく″今″を輝いていこう」と決める時、人間は、計り知れない力を出せる。また、そこから他者へのいたわりの心も持てるのです。ここに、生命の″妙″がある。″中道″がある。仏法は、この凝縮した生き方を教えた哲理なのです。

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